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平成二年七月二十六日 高校野球の帯広での北北海道大会、武田勉投手の活躍や山本武彦監督によるスクイズの作戦成功などで、わずか十九人の中標津高野球部が強豪旭川龍谷を完封し、ついに甲子園行きを決定した。その瞬間、夕暮れの街は歓喜に満たされた。 中標津のみならず周辺の町でも急きょ応援のための特別予算が組まれ、寄付も予想をはるかに超える額が集まった。応援団のバスが千歳空港に向かう途中でも沿道からの差し入れがあるほどの盛り上がりであった。 その前年には鉄道の標津線が廃止され、五月には降雹による大被害に見舞われた厳しい時期であったが、奇しくも甲子園行きを決めた翌日には空港で尾崎豊町長の胸像の除幕式が行われ、その翌々日には東京直行便が就航した。 羽田のターミナルビルで「根室中標津」行きのアナウンスが聞かれ、テレビでは「北の果てなる標津野の・・・」の校歌が流れ、この難読地名が全国に知れ渡った。 「あゝ甲子園 中標津高校野球部 ’90夏の軌跡」より 和歌山星林との試合は3点差の劣勢から同点、延長十回の熱戦となり、無死二塁。8番木内祥雄一塁手(3年)の打球は三遊間へ。誰もが「抜けた」と思った瞬間、イレギュラー。二塁走者の森が避けようとジャンプしたが、左膝に当たり守備妨害でアウト。この回無得点に終わり、その裏、無念のサヨナラ負けを喫した。 町民は「日本初の木造空港ターミナル」で甲子園から直行ジェット便で戻った球児たちを暖かく歓迎した。 その七年前には空港に近いカラマツ林に定期便のYS11機が墜落する事故があり、安全性の向上の勧告が出されたことで、計器進入装置が設置され、さ対空通信要員が配置された。 さらに昭和62年には皇太子ご夫妻がYS11で中標津空港にご来町されたことで、事故の印象が一掃された感があり、これにより日本最東端のジェット化空港が実現し、この絶妙なタイミングとなったわけである。
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by denseikan
| 2023-03-27 03:55
| 歴史資料
佐藤文子さん 昭和23年 中標津村立中標津中学校の硫黄山への修学旅行 白いイソツツジの花の中での記念写真 右から写真提供者の佐藤文子さん 伊藤幸子さん ひとりおいて 豊島トシさん 佐藤信子さん ひとりおいて 吉田トシさん 富岡喜久枝さん 犬飼静子さん 渋谷しげ子さん 眞嶋くん・・・ 担任の中村重夫先生(めがね) 前列の座っている右端が亀岡孝子さん 高玉美枝子さん 上高トシ子さん・・・・神代愛彦くん 山口修くん・・・ 当日はトラックの荷台に揺られてガソリンの匂いの中で往復した 佐藤獣医の農家往診 米軍の空襲の時には 海軍飛行場が出来たばかりだったので #
by denseikan
| 2023-03-27 02:26
| かたりべ談義
日本各地から根室原野の奥地に集団での入植が始まったのが100年程前である。
それ以前は、厳しい気候、恵まれない土壌、不便な交通のため、定着して開拓する人がいなかった・・・と認識していた。 ところが、いろいろと調べているうちに、集団入植の前に、なんと百万坪の大きな農場を経営していた人が「中標津原野」にもいたことがわかった。 標津村で官設の駅逓所を営む有力者、芦沢勇吉さんである。 (お役所への貸付申請書の文字は難しい昔の字を使っている) この人に、強く心ひかれるものがある。 残念ながら芦沢農場は大雪の災害で馬や牛の半数を失ったり、跡継ぎのお子さんがいないなどの事情もあり、ご本人が亡くなったあと、大正末には奥さんは財産を処分して四国に転居されたため、今の中標津にはまったくといっていいほど何も残っていない。 ただし、芦沢さんが植えて、育てたカラマツの切り株の薄く切ったものが残っている。 50年以上の年輪が数えられ、中標津が町になってから切り倒されたものである。 「根室要覧」の中標津唯一の写真には農場での馬を伴った勇吉さんが写っている。 農業と牧畜を始めるにあたって渡米して馬耕、とくにプラオの使い方を習ってきたという話が残っており、親しくしていた長谷川藤作さんとはテニスもされたということで、おしゃれで実行力のある方だったことが想像できる。 芦沢さんの農場は現在の「ジャパン」の噴水のようなネオンサインがある19線から東側の標津川とチナナ川に囲まれた土地で、俵橋よりも先の綱橋の12線にまでわたる広大なものである。 その土地の中央あたりとなる16線零号、今のマルエー温泉の近くに写真の牧場の建物があったものと思われる。 露天風呂から見えるチナナ川沿いの林を眺めながら、100年前の中標津を思い描き、いろいろと想像をしてみたいことがある。 もし芦沢さんが先に農場や牧畜をやっていなかったら・・・果たして団体移住による開拓に成功しただろうか。 続く冷害凶作で根室原野の開拓が放棄され、未開の原野のまま残され、せいぜい戦後の開拓が行われた程度で、うまくすれば知床と一体の世界自然遺産になっていたかもしれない。 いやいや逆に最悪の状況としては、どこかの国が実効 支配をしていたかもしれない。 もし幸い芦沢さんに跡継ぎがいて、現在も大牧場が健在だったら・・・標津村が奥地開拓に積極的に関わり、標津村が一体となり、分村して「中標津村」になるようなことはなかったのではないだろうか。 いや、むしろ標津市となり、標茶からの鉄道も残り、根室や釧路を超える主要な地方都市となっていたかもしれない。 もちろん仮定であり、空想ではあるが、スケールの大きな人物だっただけに、長生きされて、活躍していただけたなら、きっとこの地域にプラスの効果があったに違いないと思われ、残念な気持ちになってしまうのである。 ********** 2020年12月 追記 ************ 開陽に団体入植された福島双葉団体の玉沢さんにお話しを伺ううちに、ある事実が見えてきました。 令和2年の現在、新型コロナで世界が変わってしまったわけですが、かつて大正8年のスペイン風邪、当時の言い方では 流感(流行性感冒)が根室でも猛威を振るっており、根室、標津経由で船と徒歩で開陽奥地に入植された玉沢さんのお父さんとお爺ちゃんは、まさにその最中に根室を通り、お爺ちゃんが流感に罹ってしまったそうなのです。 上記の芦沢勇吉さんは59歳と、比較的若くして突然亡くなっているのですが、それがこの年の2月、同じ時期であり、可能性としてはスペイン風邪で亡くなったのかもしれない・・・スペイン風邪のおかげで、標津や中標津の歴史が変わった・・・のかもしれません。 詳細は 引き続き調査中 大正8年の小樽での記録では以下のような記事がある。
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by denseikan
| 2023-03-27 02:18
| 歴史資料
空港がある町、中標津。 北海道の地方空港としては早い時期に民間空港の設置に取り組んだ結果、村から町になって十年も経たない時期に、民間旅客機が飛び始めました。 終戦時に、ほぼ無傷で残った旧海軍の滑走路が利用でき、近くに鉄道の駅がある有利な条件により、昭和三十七年には町営の空港、四十八年には道営空港となり、五十四年には国産旅客機YS11が就航しました。 しかし五十八年三月には、悪天候の中で、死亡者はいなかったものの、雑木林への墜落事故が発生しました。 それにも関わらず、六十二年九月には、皇太子(現上皇陛下)ご夫妻におかれては、事故のあった同空港を、同型機でご利用いただきました。 黄色いスーツの美智子様が機内から見えた瞬間に、空港の空気が晴れやかになり、事故以来、航空保安施設が改善されて、安全な空港に生まれ変わったことが一瞬で認識されました。 その後、ジェット機で羽田との直行便が就航した平成二年には、中標津高校の甲子園での活躍が全国的に話題となり、「なかしべつ」の地名が知られるようになりました。 ちなみに、平成の時代になって以来、日本の定期航空会社の旅客機においては、1件の航空死亡事故も発生していません。 また、皇太子殿下は、独身時代の昭和三十三年には、キャデラックで未舗装の町内を通過されていますが、計根別、高津商店前で土田良吉さんが撮影された写真には、沿道で最敬礼をする町民の姿が、磨かれたボディに映っています。 時は遡り、平和なまち、中標津の、ある隠れた出来事。 昭和六年、夏休み明けの月曜の朝のことです。 この年は大凶作なのですが、上空を、赤い翼の水上機シリウス号が爆音を轟かせて通過しました。 パイロットは大西洋単独無着陸横断の英雄リンドバーグ、後席には通信士としてアン夫人、地上の中標津尋常小学校(今の高校の場所)の校庭では、朝礼前の子どもたちが皆でおもいきり手を振りました。 その前日と前々日、シリウス号は、根室の悪天候のため、択捉と国後島に不時着をして、晴天となった朝、根室の港に向かう途中で中標津の上空を通過したのです。 リンドバーグにとって、ニューヨークから東京方面に行くための最適な経路は、北まわりでアラスカ北部からカムチャッカ、そして特徴のある択捉の散布と北散布山の間、国後島の爺爺岳の二重カルデラを目印にして中標津原野の零号基線(白樺並木道)上空に至るルートなのです。 北太平洋の航空路の開拓、調査が目的の飛行ですから、必然的なルートの選択です。 ためしに羽田空港とJFK国際空港をデジタル地球儀 GoogleEarth で結んでみてください。中標津上空を通過する線、大圏航路になるはずです。 問題は、もし、公表される手記の中で、中標津周辺こそが将来の北太平洋航路の拠点空港の最有力候補地であるようなことを報告すれば、当時の米国大統領ルーズベルトは、飛行艇による南まわりのタヒチ経由の南洋ルートではなく、北まわりを選び、その後の開戦直後に沖縄でなく北海道上陸作戦を決行したことでしょう。そして原爆も北回りでの攻撃が想像されます。 アン夫人の手記「翼よ北へ」North to the Orient の中では、千島列島の気象の厳しさがくり返し強調され、国後島を出発する場面の、その次のページからは飛行日誌とは異なる日本文化の話に終始し、ひとことも根室や東京でのことには触れていないのです。 日本を礼賛する内容が終わると、突然、大阪出発の話になり、そのまま九州経由で中国の武漢、漢口に向かう内容で終わります。 昭和十年前後の時期、米国は日本との開戦で、大恐慌を克服し、景気回復をねらう大統領と、あくまでも日米開戦に反対するリンドバーグが激しい論戦をすることになります。、 昭和六年のあの朝、上空からは豊かに見える広大な原野を眺めた瞬間に、リンドバーグは危険な将来を見通したのだと思われます。きっとアン夫人とも話し合ったことでしょう。 皇太子ご夫妻とリンドバーグ夫妻が、具体的な言葉を、あえて一言も残さないで、この地域をまもり、育てて頂いたのだと思うのです。 現在は北方領土という異常な状況の中で、空域が制限されています。以前は、遠回りしてロシアの国内線航空路を利用して行けた時期もありましたが、もはや遠くから眺めるだけの不便な空域になりました。 将来、平和が実現し、この問題が正常化すれば、小型機にとっても千島列島、北太平洋ルートが世界一周に最適な経路となり、小型ジェット機でハワイやアメリカ各地、ヨーロッパに行くのに利用され、便利な最東端の国際空港になると信じているのです。 #
by denseikan
| 2023-03-26 16:44
| 航空
心の風景 なかしべつの中心地のはなし
明治から大正、昭和の時代に入植し、毎日、日出前から暗くなるまで、極寒の大地を耕した人の心の中には、それぞれが目指す新たな故郷の姿が描かれていたことでしょう。 俵橋、武佐、開陽そして中標津の人たちの心の風景画の背景には、きっと武佐岳が大きく描かれ、山頂の重なり具合で、どこから見たのかが分かることでしょう。でも、もしかすると俣落、当幌では斜里岳が、計根別では西別岳が、養老牛ではモアン山が描かれていたのかもしれません。 見渡す限りの地平線と遠くの山並みだけの風景画に、しだいに畑が広がり、住居が建ち、道ができてきたのでしょう。道沿いに植えた白樺が育ち、街ができ始め、やがて高い煙突まで建ち始め、そして白煙をあげて猛進する機関車が現実のものになった時の喜びが伝わってきます。 ところで、その風景画に描かれた中心的な中標津のシンボルは何だったでしょうか。 時代とともに、場所によって変化するシンボルをさがしてみましょう。 古い集合写真や記念写真を眺めていると、その時代ごとに背景に特徴があることに気が付きます。 大正時代には開陽の指導農家の前、昭和になるとサケマス孵化場、中央十字街の交差点と一条橋、殖民軌道の倉庫前、そして農事試験場根室支場の本館前。 昭和初期の拓殖計画のための宣伝映像では、ひたすら入植者風の人たちが中心で、移住者世話所と農事試験場関係ばかりが目立ちます。 そして戦後になると軍事機密の心配もなくなり、駅前写真が増えました。雪印の火災復興後の巨大煙突もよく写っています。中央通りの洋裁女学院、消防団、白樺並木での卒業写真も定番でした。 昭和三十年代には、テレビ放送が始まり、中標津が全国に紹介されました。その内容は、武佐岳の遠景で始まり、駅の賑わい、商店街、さけます孵化場に農業試験場、神社、木工所、雪印の工場、そして空港を飛び立つ旅客機で終わります。 昭和四十年代の駅のホームに掲げられていた名所案内には、テレビ展望台、開陽台スキー場、養老牛温泉、標津岳、さけます孵化場、そして農業試験場が書かれていました。 空港が庶民の足になるのは、ずっとあと、平成の時代です。 さて、現在の中標津の心の風景画には、何が中心に描かれているのでしょうか。 すでに駅はなく、線路さえありません。澱粉工場も木工所も変わりました。空から眺めて見れば、碁盤の目の区画に格子状の防風林が育って、静かな街並みが広がっています。 空港や大型ショッピングセンター、病院、体育館もありますが、心の中心地とは少々違う存在です。 かつては明確な中心地であった駅前ロータリーは、文化会館前の広場となり、駅の正面にあった大旅館跡は、かつては銀行いまは信用金庫になりました。 そして現在、たぶん一番多い集合写真は、文化会館と、その周辺でのイベント、夏祭、冬まつりの写真ではないでしょうか。 すでに駅舎や跨線橋、転車台はなくなっていても、やはり駅の跡こそが、心の風景の中心地なのではないでしょうか。
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by denseikan
| 2023-03-23 08:42
| 歴史資料
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