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根室単複_男女共学
http://blog.livedoor.jp/denseikan/nemuro_tampuku.pdf 戦後間もないころの僻地教育の機関誌 ガリ版印刷の「根室単複」より 單複今昔物語 第十話 男女共学 ▼三次と信子の場合▼ 森の男 男女共学と言う言葉は、戦午始めて出来たように思う人もあるが、私共単複人には何も新しい言葉でもなく むしろ聞き古した事案でさいある。何故ならば、私達の祖父母たちの学んだ江戸時代の寺小屋教育が男女共学で、その后明治となり大正、昭和となった今日でも単複校は依然として男女共学である。 都市に学んだ者にのみ奇異に感ずるであろうが、田舎では男女共学、兄弟 (姉妹)共学である。 父母兄弟一家団欒するように、学校でも先生と生徒が 談笑の中に学んで行く様は学校とでもいうべきで、極めて自然であり又教育的でもある。 夕餉がすんだ后、彼の父は「三次、一っと一っで何んぼだ」、「二っだ」。「ニつと三つでは」。三次は指を折って数え、「五つだ」 父は更に「五つと六つでは」、「・・・」。 十以内なら指を折って教えるが、十一以上は不能であった。 「三次よ、一体お前はいくつになった、年令は」、「おど、おれの年令知らねえのけエ」。「おどは知ってるだど、お前は自分の年令を知ってるだかア」 「知ってるで イ、十四だ」、「十四にもなって、一年生でもやれる勘定が出来ねエたア情けねエでかよ」。 彼は白痴に近い低能児であった。三次が三四才頃に脳膜炎を患ったのが原因であった。 父親が嘆くように先生も種々苦辛したが、どうにもならなかった。止むなく同学年を二年やらせて進級せしめることにしていた。それで今年十四才で四年生になったのである。 「眼が近い代わり耳が遠い」という人もある、三次は勉強が出来ない代わる悪戯が人一倍優れている」だから誰え彼の隣に座ることを好まない。 それで先生は、四年生中最優秀児「のぶ子」を隣席に配した。 「のぶ子の家は中流以上の農家で、学業成績ばかりでなく運動もやるし、 服装もキチン としているし容貌も良く、人の面倒も見る所から、級友の信頼も厚かった。 隣席の三次は勉強もせず、いたずらばかりして自分勉強を防げるので或る日幼稚園の読むような絵本をもって来て与えた。 三次の家には元より絵本など一冊もなかったので珍しいから、温順しく、それを見ている。信子は自分の勉強が済めばそれを読んでやる。 教科書はむずかしくて歯が立たない彼でも、鬼と猿に相撲を取らせる金太郎の話や、お婆さんの拾ってきた桃から赤ちゃんが生れる桃太郎の話はよく了解出来るので、興味を持ち、信子の読むのをじっと聴き入っている。信子に二、三回読んだ后「三次さん、こんど字を書いて見ましょうネ」とノートを出し 「お相撲を取ったのは「うさぎ」と「さる」行司をしたのは「しか」と書いて行く、三代っ子の手本に頼って書いて行く。 出来れば赤クレオンで○を与えて賞揚する。彼は、かつて先生から〇をもらったことがないのに、この小さい女先生は〇を呉れるのだから、ほんとうの先生よりも他のどの生徒よりも好きになり且つ信頼した。 信子はこうしてカチカチ山、猿蟹合戦、マン画の本等で仮名を教え、日曜には、三次の家へ遊びに行って、いろは歌留多遊びをして平仮名、片仮名を完全に指導した。 算術(今の算表) はお手玉やはじきを以て指導した。信子の指導方法は遊びながら勉強するのだから面白い、目や口や、手を使って勉強するのだから、脳の働きが少々足りなくとも覚える。 十以内の加減はこうして指導した。十一以上の指導に相当苦心したようだ。 彼女古葉書をたくさん集めてきて、二人で十枚づつ束ねた。先ず、十、二十、 三十.…と百までの数え方を教え、次にそれにバラの葉書を添えて十一、十二、十三・・・二十一、二十二、三十三 というふうに進んで行く。 二人の間に興味(三次の習い覚える興味と、信子の教育効果と)二人の愛情、真理探究の心が増し、且つ深まって行った。 仮名を覚え十以内の加減を会得し、百までのと唱え方、書き方を覚えた頃に彼等は五年生になった。 今迄隔年に進級したのに、今年は特例で同一学年を一年で進級した三次の喜びはどんなであったろう。 それにも増して喜んだのは彼の指導主任であった信子であった。 五年なってからも三次と信子は組んだ。それは三次も信子も望んでおり、 先生も彼等を十分知っていたからである。 國語の本も漢字にふり仮名をしてやれば、教科書を独りで読んでゆけるようになっていた。 尤も普通文は、その二、三割が漢字であとは仮名であるから仮名さえ覚えていれば読めるものである。 算術はどこまでも実物教授である。 「七に八を足してみましょう。葉書を七枚、別に八枚出してごらん。葉書を八枚の方へ、七枚の方から二枚とって来て十枚。 七枚の方は二枚やったから五枚、みんなで十五枚。 減法は「十五枚から六枚を取って見ましょう。十枚たば一つとばら五枚ですよ。五枚からは六枚とれないから十枚たばをほどいて十枚から六枚とって四枚、この四枚とバラの五校で九枚、だから十五引く六は九」。 こんな風にして五年六年と二年の間に掛算九九は勿論、大ていの加減乗除はやれるようになり、彼は十六の春、卒業証書を手に「ほたるの光」の唱歌を最后に感激の涙をもっ て、なつかしい校舎と敬愛せる信子先生とに別れをつげたのである。 その学校には高等科は設置していなかった。高等科に上がるにも都市に出なければならぬ。三次の家はあまり裕福でないから、たとい優秀な子でも上級学校へ出せる資力はない。増してやお情けで尋常小学校を卒業さしてもらった三次、第一本人は上級学校へ行こう等とは思ったことも考えたこともない,そうかと言って十六にもなり、並外れな図体をしてブラブラ遊んで居るわけにも行かず、どうしたものかと思案していたとき、K市の或る呉服店で小僧に欲しいと近所の人が話を持ちかけてた。 「こんなうすのろが勤まるかどうか」と、親は危ぶんだが本人は行って見るというので、その店に奉公することになった。 彼は自己を認識していた「俺は頭が悪い。物忘れする、だから何でも書いて置くことにする。それを暇あり次第複習しよう」と、手帖と鉛筆は離さなかった。品名、定価、売上、貸付等の雑用までこまごまと記入して置く。故他の小僧の記憶より三次の記録の方が精密であり確実であった。 それに彼は体が大夫である所から、店の拭き掃除、使 い 走 り は勿論、台所の用まで骨身惜まずコマ鼠のように働いた。 尚夜分は算盤を練習した。正直で勤勉で親切で確実である彼は、主人や番 から厚く信頼され、今では立派な店員となった。 彼は常に述懐して曰く 「俺の今日あるは三つ年下の、信子先生のお陰だ」と、信子への通信は怠らなかった。 昭和二八・二・ニ七 #
by denseikan
| 2023-12-09 14:40
| 歴史資料
しばれ薯名人は・・・実は開陽王国の王様です。古い名刺をいただきました。 中標津町・酪農家 房川喜延さん 中標津の開陽台から転げ落ちると房川牧場にたどり着きます。 しばれ薯というのは、いわば凍結乾燥馬鈴薯、根釧原野の人々が大冷害を乗り越えた命の食です。 食べるには電子レンジで解凍、過熱して煮えたところで塩味をつけます。丸棒状にして1cmくらいの厚さに輪切りにして揚げると出来上がりです。 棒でのしてからガラスのコップを使って丸く抜き出すようにすれば形の揃ったものができます。中に紅生姜をいれたり、黄色いのはカボチャ、その他ヨモギやアイヌ葱を入れたら根釧原野名物になる・・・」と奥様といっしょに親切に作り方を教えていただきました。 遠く南米ペルーの中央アンデスの高地、インカでは紀元前から「チユーニョ」とよばれて毎日食べられていたことがわかりました。 かつては「チユーニョの無いスープなんて、愛の無い人生のようなもの」ともいわれ、石臼で粉にしたものを入れた肉入りシチューは4000mの高地に住む人々の体や心を温めていたことでしょう。 亜寒帯地域である根釧原野と赤道直下の高地とが、気温変化の大きさ、厳しい寒さと強い日差しのおかげで、共通の食材「しばれいも」でつながっているのです。 (文 写真 飯島実) 2006年1月 フリーペーパー じゅう箱のスミ 第10号に掲載されたもの。 #
by denseikan
| 2023-11-25 15:51
| かたりべ談義
そこで伺ったお爺ちゃんやお婆ちゃんのお話の中から 戦争に関連した 印象に残っていることについてお話します 20年間も毎週水曜日の午後にやっていましたが、 実は戦争をテーマにお話ししていただいたことは 一度もありません。 本当につらかったときのことは 話すことも 聞くこともできないのです 今回は 戦争を乗り越えた話や 終わって嬉しかった話などが中心なので あまり心配しないで聞いてください
まずは 自己紹介を兼ねて校歌の話から始めましょう 写真は 杉並区の都立豊多摩高校の校門あたり 入学した当時は木造校舎でした 制服も校則もない学校です 大先輩が谷川俊太郎さん そして 宮崎駿さん たぶん みんな下駄での通学です 中標津東小学校の校歌の詩を書いてくれた 東京府の豊多摩郡は 武蔵野にありました そこは武蔵野の三鷹といえばスタジオ ジブリのある場所で 中島飛行機の工場跡地は米軍宿舎グリーンパーク その場所を なにもない原っぱにしてほしいと運動し 都立むさしの中央公園というユニークな公園となり 紙ヒコーキのメッカとして 世界的にも知られる場所になりました 東京空襲は 106回もありました 谷川さんは在学中に大空襲を経験しました 宮崎駿さんは まだ ちっちゃい子どもの時代です お父さんは零戦の方向舵などを造っていました
私は 終戦から4年ほど経ったころ生まれましたが 下町 両国の家は空襲で焼け 戦後は都営住宅で育ち すぐ近くの豊多摩高校に入学しました 谷川さんも 宮崎さんも 作品の中には 時間と空間 そして平和が描かれているような気がします 卒業のときに贈っていただいた詩が です
次は 巣守さんのおばあちゃんのお話 太平洋戦争の開戦後 間もなくご結婚されて すぐにご主人は出征し 大陸の戦場に行かれました 4年ほどの戦争がやっと終わって それからさらに半年ほど経った3月6日 吹雪の夜の最終列車で 事前の連絡も無く 突然戻ってきてくれました 上武佐の駅から 大きなリュック(背嚢)を背負って 俵橋17線の家に戻って来られたときは 生涯で一番うれしかった瞬間だったとはなしてくれました 偶然 記念すべき3月6日だったので 思い出しながら語ってくれました その後、ご主人は 馬を買い、市街地の神社下に引っ越して 昭和24年からは馬追さんとして 材木を運んだり 石炭を配ったり馬での開墾もして 働きに働いたご主人だったそうです 馬の肩のガラオオイに「中標津町 巣守」の文字が誇らしげに見えます この写真は 今の役場あたりで切り出した巨木を中央通りを通って 駅裏の製材所まで運んでいる様子です 馬追さんというのは 当時の花形の職業だったそうです 次の写真 若い軍属です 農事試験場本館前 オンコの樹も 戦争中は農業試験場の本館(現在の伝成館)も防空監視に使われていました 若い軍属たちの 健康な眼と耳が役に立ちました 暖かそうな外套を着ていますが 交代で一日中 昼も夜も 屋上で空を眺め 耳を澄ませていたことでしょう 飛行機を敵か味方か識別できるように訓練を受け 機種 機数 方向 距離 高さ 飛行方向などを報告するのです
伝成館の建物は 攻撃を受けた記録はありません 巣守のおばあちゃんによれば アメリカ軍の若いパイロットの眼には この建物は協会のチャペルに見えたのだろうとのことでした
その他にも 若い軍属は計根別飛行場で気象観測の仕事もしていました 毎日6回の定時観測を行い 電信で札幌 豊平の本部に報告します 気象観測所には若い女性の軍属もいて 軍隊にしては華やかな部隊でした。
終戦のころの様子は 気象観測所の所長による 次の記録に書かれています
計根別の若き戦友たち 要点抜粋 昭和二十年八月十八日、終戦から三日目、陸軍航空隊 最後の飛行日だった。 村のお歴々、そして希望する誰でもが軍用機に同乗できるというので、 わが気象観測所の若い軍属たちも異常に興奮していた。 私は女子軍属には厳しく同乗を止めた。 少々ヤケ気味の飛行士達が若い女性を乗せたら、 どんな飛行ぶりをするかわからない。 中略
終戦の前のころ 川筋から雪が消え始めると、 すぐ福寿草が咲いた。野生の福寿草に驚いているうちに、 カシワの森の下には スズランが群生して咲き出す。 近くの小さな川で大きな岩魚を、毎分なん尾も釣り上げてみたり、 原野の美しさに心をうばわれたり、戦いを忘れた束の間であった。 雪解けと共に飛行部隊の訓練も激しくなった。 小さな対地上戦用襲撃機で 特攻(神風特攻隊)の訓練を始めたときには、 戦局の最後と覚悟した。他の中隊は夜間訓練、霧を恐れ乍ら飛び、 霧の観測をした。残りの中隊は、早朝、千島列島に敵潜水艦攻撃に出勤し、 私たちは休むことができない気象観測を続けていた。 七月に敵グラマンの襲撃を受けた。 機銃掃射の中を我が軍属たちは駆け抜けて勤務に就く。 私は教育の成果に恐ろしさを感じたものである。 疲労の極みの中で終戦となった。カシワの葉の緑が強く光っていた。
終戦で号泣した。そして観測所を閉鎖し、解散し、兵を引き揚げた。 計根別を去るときにまた号泣した。 あの涙はなんであったのか。敗れた戦いに泣いたのか。 国に捧げた青春に泣いたのか。軍民一体の花の観測所の成果に酔って泣いたのか。 軍属たちと別れの時、十年後の再開を約束した・・・。
別の写真で当時の学校の様子を見てみましょう 開陽実家農学校や 開陽尋常小学校(国民学校)の朝礼の様子 で雰囲気が伝わってくるのではないでしょうか 詳しい内容は 玉沢さんの「武佐岳 わが故郷」に詳しく書かれています つぎは 開陽の蜂蜜のはなし 吉原一雄さん提供の殖民軌道の停車場の写真です 昭和12年12月 鉄道が標津と標茶、厚床につながったことで この殖民軌道のガソリン機関車は廃止となりました 開陽の軌道倉庫で最後の便を見送る人たちですが、 拡大して よく見ると中央の向こう側に 吉原さんのおかあさんの顔をみつけました 写真の持ち主も気が付いていませんでした 人気ものの奥さんだったそうです
吉原一雄さんは 広島の部隊で原爆の直撃を浴びたものの 、爆風で40mも飛ばされ 木陰に救われ奇跡的に焼けどを負わず、 なんとか広島から開陽まで列車や船を何十回も乗り継ぎながら戻って来られました その息子さんの看病をするため お母さんは 毎日のように蛇や鳥の生き血を飲ませてくれたそうです 原爆症とたたかいながら実科農学校で学んだ養蜂の技術を活かし原爆手帖も使って 鹿児島から北海道 中標津の蕎麦の花まで 花から花へ 花を追いかける仕事を何十年も続け 蜂蜜のおかげで健康になることができました 開陽台の名物でもある蜂蜜には そんな背景もあるのです 次のカラー写真は 戦後 生活が安定したころ 房川さんが撮影した房川家ご一家とお手伝いの皆さんです 中央がお父さんの一良さん 1918年(大正7年)チェコスロバキア兵救出を名目上の目的とされたシベリア出兵で 所属部隊は全滅し たまたま斥候、偵察に出ていた一良さんだけは 奇跡的にご無事で帰還されました また残虐な尼港事件(アムール川の河口のニコラエフスクでの虐殺事件)や シベリア経由で広がったスペイン風邪の悲惨な状況も 体験して来られたと推測しています 以前から 開陽で 房川一良さんが 衛生に厳しいといわれていることは聞いていました。 或る日 お葬式でもらったお饅頭を食べている子どもたちをしかりつけ 口の中から餡子を吐き出させ、指でかきだしたというのです。 開陽の人たちにはその理由がわからず、永年語り継がれていた出来事なのですが、 私がスペイン風邪のことを調べていて、やっとその理由が見えてきたのです。 衛生兵でもあったらしく、獣医の仕事もできるほどの知識のある方だったそうなので、 感染症のことを心配してのことだったのでしょう。
終戦の日以来 その髭を剃ることがなかったのは いつまでも平和が続くことを願ってのことではないでしょうか
中標津の丸山公園にある慰霊碑には 戦没者197名のお名前があります #
by denseikan
| 2023-11-23 18:13
| かたりべ談義
防風林と馬橇に救われたはなし 伝成館かたりべ談話室 2023.11.2 戦争が終わり、標津村から分村して中標津村、そして中標津町となり、テレビの時代が訪れた昭和37年(1962)、武佐岳の麓にNHKの中継アンテナが建設され、全国に中標津町が紹介されました。 その開陽台からは10km程の場所にある武佐小学校に、昭和35年、旭川学芸大卒で、未開地での教育に夢を抱いている先生が赴任してきました。 そのころは、家ではやっと電気が使えるようになったものの、電話はなく、有線放送を使って連絡事項を伝えていました。 そんな時代、昭和39年(1964)の出来事です。 それから30年ほど経った昭和39年のカラマツは、立派に育ち、風を弱めてくれています。
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by denseikan
| 2023-10-29 11:42
| かたりべ談義
紀伊半島の南部、和歌山県の南紀白浜が「憧れのリゾート」「豪華な新婚旅行」の地であった時代の貴重な写真が見つかりました。 使用機は主にグラマンG73「マラード」。 双発の水陸両用飛行艇が主に使われていました。 この他、フロート付きの単発エンジンのオッターなどもありました。 航空会社は当初「日東航空」、後に「日本国内航空」が運航していました。 大阪は、当時は平屋のターミナルビルだった伊丹空港から出発です。 料金は約3000円、高級スーツが買える程の金額でした。 陸上の滑走路から離陸し、ゆっくりと上昇してゆきます。 甲子園球場を眼下に見ながら、海岸線を和歌山にむけて南下します。 紀ノ川、御坊を過ぎ、南部梅林の上空から白い砂の海岸が見えてくるとエンジンを絞り降下します。 円月島をかすめ、三段壁や千畳敷を見ながら、 この時代にはまだ特権階級のものであるゴルフ場の上を通過して、 島々が点在する田辺湾に進入着水します。 飛行時間は40分弱。 星形のエンジンの騒音と振動がなくなると静寂な水面に漂う別世界に変わります。 浮桟橋に飛行艇をつけ、連絡ボートに乗り換えて「綱不知」(つなしらず)と呼ばれる、静かな入江、温泉の町に向かいます。 白砂の浜、夕陽が奇岩の小島に沈みます。 双発エンジンの形から、関係者は「コルゲン・コーワ」と呼んでいたそうです。 客室からの入口の不思議な形 なぜか扇風機がひとつだけ いい雰囲気をかもし出しています。 6人の乗客と スチワーデスも乗っていたようです。 あまり乗れないのだそうです。 やはり高級な乗り物だったのですね。 このマラード飛行艇の愛称は「くろしお」 すこし小型のオッター水上機のことを 関係者は縁起をかついで 「アッター」と呼んでいたそうです。 この他にウィジョンという飛行艇が使われることもありました。 ちなみに、当時、就航していた水中翼船の愛称は「つばさ」。 飛行機と船が逆のようで、おもしろいですね。 一日3往復ですが、繁忙期には、2機で大阪との間を 7回もピストン輸送をしたこともあるそうです 上空近くまでは計器飛行(IFR)で運航していたようで、問題は波と風でした 海水に降りるわけですから、整備には手間がかかったことでしょう。 白浜から伊丹に向かったマラードの油圧(ハイドロ)が低下して、 車輪が片方降りなくなり、オイルの代わりに、コーヒーを足したり、 しまいには おしっこ まで入れたという話を聞いたことがあります 結局は片足着陸をしたそうです さらに時の流れをさかのぼります。 戦前の昭和10年ころ、大阪の木津川飛行場から複葉の水上飛行機が 白浜に飛んできていました その頃の写真(白黒)が、白浜温泉の白良湯の壁にかかっています 大阪飛行場(木津川)から白浜の路線と、 高松経由、松山、別府を結ぶ定期航空路線がありました。 通称「一四式」水上機 軍から払い下げられた機体を組み合わせたもので エンジンはV型8気筒のベンツ 日本航空輸送研究所が運航 白良湯の一階 玄関の休憩所に飾られている写真です。 片山久太郎操縦士と藤堂機関士が写っています 旅客は四名 やはり田辺湾に着水し、波が静かな「綱不知」の入江で 艀(はしけ)を使って乗り降りしていました 遊覧飛行は、波が静かなときに白良浜で行われていたようです ツナギの服のすそをまくり上げている係員は 乗客が濡れないように、背中に背負って運んだのです 芸者さんが、手に履物を持ち、裾をたくし上げ 若者に背負われているときの、表情が見えるようです 赤い腰巻、白い素足が刺激的です 当時、日本飛行学校や「日本航空」も木津川飛行場を利用しており、 羽田との間の定期航空としてフォッカー機が就航していました。 下の写真は、日本航空輸送研究所の所有機で、 木津川飛行場での遊覧飛行や訓練に使用されていました 1935年(昭和10年)6機のAB-4飛行艇のうち3機が日本航空輸送研究所に払い下げられ、1機は貨物機として使用、2機は日本飛行機で旅客用飛行艇に改造。 操縦席は機種の銃士席に移され、客席が追加された。1機はエンジンを高出力のネイピア ライオンに換装された。 日本航空輸送研究所ではAB-4を定期運行や観光飛行に用いた。昭和12年5月27日に堺市の工場の煙突に衝突し、5人の犠牲者を出す事故を起こした。(wikipedia) 愛知AB‐4型飛行艇 六試小型夜間偵察飛行艇の民間型 エンジンは東京瓦斯電気工業製 の6気筒空冷直列エンジン「浦風」 次は英国製 サザンプトン飛行艇 麒麟号 機首に「麒麟麦酒」のマ-ク 乗客らしき親子もいます。 帆船や軍艦のような姿も遠くに見えています 機体を川辺まで横に移動させるレ-ルと、水面に降ろすためのクレーンが見えます 浜寺の羽衣高等女学校卒業の岡本徳子さん(当時19歳)は 戦争に向かって突き進んでいる時代 #
by denseikan
| 2023-09-01 11:07
| 航空
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