ふるさとの礎 なかしべつ伝成館
2024-03-15T00:53:23+09:00
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伝成館は 中標津の歴史発祥の建物 denseikan@gmail.com
Excite Blog
「東経145度の標(しるべ)」
http://denseikan.exblog.jp/33893790/
2024-03-13T14:41:00+09:00
2024-03-15T00:53:23+09:00
2024-03-13T14:41:04+09:00
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Google Earth
今や 大型ショッピングセンターが出来ていますが当時 こんな風景でした東経145度の標(しるべ)モニュメント
平成5年 1993年12月9日国道272が いわば「バイパス・フリーウェイ」として開通したのに合わせて設置
まだスマホなど無い時代かなり時代を先取りしたと言えますが
その後 GPSなど衛星航法の時代となり日本測地系から 世界測地系が一般に使われるようになりスマホに北緯東経がデジタル表示されますが400mほど東側にずれてしまう結果になりましたGoogle や Yahoo 航空路図や海図は
もっぱらGNS84と呼ばれる世界測地系ですが
従来の日本測地系は 現在でも土地の管理などで使われ
標高も 東京湾の平均海面が基準で
現在でも 日本国内の公式な子午線は
この場所を通っています
この場所の真北には「見返りキツネ(遠吠え狐)」緑の線は 郡の境界線です狐の鼻先 尾の付け根目梨郡羅臼町と斜里郡斜里町根室管内とオホーツク管内東経145度の赤い線は キツネの尾の先を通っています
古多糠 川北あたりを通って 中標津
そして 別海の矢臼別演習場を突っ切って涙岬あたりで太平洋赤道を越えて オーストラリア南部 メルボルンタスマニア そして 南極
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殖民区画図を見ながら思うこと
http://denseikan.exblog.jp/33886316/
2024-03-09T17:44:00+09:00
2024-03-10T13:22:46+09:00
2024-03-09T17:44:19+09:00
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かたりべ談義
「根室国標津郡中標津原野区画図 第1」明治44年発行の中標津あたりの地図です20年程前に郷土館の学芸員から初めて見せて頂きましたこのヒコーキの様なテープの跡や破れ目のおかげで一番重要な中標津の市街地になる部分がほとんど見えないのです現在は完璧な図面をみることができるようになりましたが当時は、この図面を見ながら、想像をたくましくするしかありませんでした
開陽あたりの増画図については、手描きで書き写した図面を古老からみせていただきました
コピー機もなく、写真に撮ることもできない時代この地域で生きてゆく方法を模索している人たちの指の跡指差しながら熱く語り合う姿が見えるようです
零号 基線道路が一番下の線です「零号道幅十二間 方位南五十三度三十分西」
十二間の幅は 並木道の幅として今も残っています方位は100年以上の時の流れで 数度の磁気偏差が確認できます
第二十四線の西側は テープ跡にかからず なんとか見えます細い曲線は 旧道「旧斜里山道」松浦武四郎や地質学者ライマンが通った道です
今、私がいる事務所の多目的ホールの場所を通っています現在 伝成館と呼ぶ施設が 昭和2年に建築されたのがこの場所なのです
白樺並木道は 二十四線と二十五線の間です
かつて零号基線より南側は野付郡でした明治初期の短期間 東京府だった地域です
20年以上も 古老からお話を聞き取り資料を調べ 古い写真を見ながら 考えてきました
この地域は 特別です
原野、これといったものが何も無い時代から 計画的に街が出来る経過がわかるのです
区画のおかげで航空写真を GoogleEarthの上にぴったりと重ね合わせることができるのです開拓前の時代から正確に区画され しだいに成長する姿が見えるのですしかも それほど大規模な工事もなくほぼ昔のままの風景が 今も見えます鉄道もすでに廃止、撤去され 高速道路もなく 高層ビル 煙突群も ほぼ無い
それでありながら 最先端のマーケットや洋服店などは揃っています空港のおかげで 東京、札幌へも苦労しないで行くことができます
右折禁止や一方通行などの煩雑な規制はなく 市街地でも駐車場に困ることはありません
公共交通に頼る必要がある高齢者対策が課題ですがそれさえ 最新技術を使って解決できればほぼ完ぺきな居住環境が実現します
贅沢をしない健康的な生活大災害への準備した上で厳しい冬を知恵で凌ぐ
ここにあるのは静寂と安心感
煩雑で多忙過ぎる生活に疲れ都会生活から逃れて来る人には理想的な環境です
若い人には大都会は魅力的でしょうひととおり世界を体験したら
時の流れに身をまかせ静かな時間穏やかな空気なごやかな人間関係・・・
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風防林地のはなし 軍事的視点
http://denseikan.exblog.jp/33886153/
2024-03-09T14:13:00+09:00
2024-03-11T14:54:16+09:00
2024-03-09T14:13:34+09:00
denseikan
かたりべ談義
日露戦争当時の北海道の拓殖計画は 当然 強く露西亜を意識していました。
当時はまだ航空の揺籃期、ライト兄弟の初飛行が1903年、日露戦争は1904年で、飛行機とか航空機という単語さえ無く、日本では「飛行器」と呼ばれるカラス型の模型は存在しました。 ちなみに石川啄木の最期の詩「飛行機」が書かれたのは明治末年、1911年でした。
したがって航空機以前の軍事的移動手段といえば、内陸については徒歩か馬、馬車や馬橇、せいぜいトラックや簡易な戦車のような車両で、急激な武器の進化がいよいよ始まる時期でした。
当時の機材では、成長した防風林なら目隠し効果があったと思われ、草地、農地を高速で移動できて、なおかつ敵からは見つかりにくいという効果が予想できます。
風雪が厳しい状況では、防風林の風下側を移動することで、暴風雪の中でも自己の位置を把握できる効果があります。
地理や地域の特性を知っていることを最大限に利用でき、味方には重要拠点を判別しやすく、敵にはわかりにくくする効果を期待したことでしょう。
この広大で平坦な地形の地域の最大の軍事施設と言うべきものは、平地に突出している1000m級の標高のある武佐岳であり、かつては頂上に観測班と通信隊が配置され、中腹の山砲部隊が頂上の部隊を守っていました。つまり 山砲の射撃の有効範囲は、山麓までがせいぜいであり、遠くの港や市街地を守るための部隊ではなかったのです。
やがて大正昭和の時代となると、航空を意識した防風林の配置が計画されました。
現在でも高空から見える防風林や記念植樹、鉄道林などの人工林には、それぞれに軍事的な意味があり、多くの場合、軍用滑走路への進入目標となり、滑走路を発見し易くする効果があります。
敵から見れば同じような碁盤の目に見えても、巧な人工林の配置により方向や経路を判別できるような工夫がされています。
例えば、市街地の零号基線に沿った防風林は、現在は国道272号に沿って、チナナ川の河畔林を利用していますが、上空から見ると、この防風林だけが独立しており、且つ幅が広くて識別しやすいのです。
原野の中央を通る基線の方向を北東に延長すると海峡を越えて国後島の爺爺岳、そして択捉島の散布山と北散布山の間を通るルートになるのです。
洋上を含むこの地域での航空航法(ナビゲーション)上の重要拠点としては、特徴的な山頂である国後の爺爺岳 そして択捉の散布、北散布岳であり、進入着陸の障害となる山岳地を避けて、多少の雲や霧の中でも飛行できるようにするための目標としての役割が大きいのです。 昭和になってからのリンドバーグの北太平洋航路調査飛行の際にも重要な役割を持っていたと推測できます。
明治末期に計画された基線道路の日本最長のものが標茶停車場(旧安田鉄道)を出発点として、根室原野の中央、今の中標津の中央基線道路(白樺並木道)を通り、標津の海岸までの直線零号大通りです。
実際的には河岸段丘など地形の問題があり、零号よりも南1号が、長い直線部分を持つ道路として整備されました。 確かに交差点や橋の曲線部分を除けば、非連続ですが日本一長い直線道路で、山並みの風景の変化と、大きな起伏が魅力の景観です。
千島方面から中標津の海軍飛行場に進入するには、知床半島と国後島の間の海峡を有効に利用して、内陸の滑走路を発見するための工夫がされています。
国後島北端のルルイ岬上空から、国後島の北側の海岸線を目視しつつ、右には知床山脈、そして標津の海岸線を通過して特徴的な鉄道林を目印として、右側に川北飛行場、そして遙か前方の当幌の柏の記念植樹(皇紀2600年)と鉄道標津線の接点を目標としながら進入すると、海軍標津第1飛行場の滑走路に進入できます。上空を通り過ぎて反対方向の滑走路に進入する場合には、右側に鉄道線路を観ながら滑走路に向かいます。その際に標津川の31線、旧馬鈴薯原種農場の隣(国道272と計根別方面への町道の分岐あたり)にあったサケマス孵化場の特徴的な植樹帯が絶好の目印になっていたはずです。
機首に巨大なエンジンを付けた戦闘機の場合、前方の視野が極端に狭いのが最大の難点であり、横や斜め前の地上物標をたよりに、前方の滑走路位置を推定して操縦するのが実態です。
最後に余談ですが、この進入コースだと、森林公園にある直径60mの中標津町マーク(町章迷路)の植樹が良く見えるのです。昔はこども達が迷路で遊んだのでしょうが、今はほとんど忘れられています。
旧滑走路の時代には、民間機での進入出発の際に、客室の窓から見えていたはずです。(写真)
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殖民軌道の橋
http://denseikan.exblog.jp/33841529/
2024-02-18T16:20:00+09:00
2024-02-18T16:20:22+09:00
2024-02-18T16:20:22+09:00
denseikan
かたりべ談義
2013年12月5日 · プライバシー設定: あなたの友達
語り部談義 来客多数の日でした 佐々木信繁さんが この写真について語ってくれました この殖民軌道の橋は 標津川の本流でなく 現在公園の池になっている旧川にかかっていたもの この少し市街地よりには 枠がある別の鉄道用の木橋(略して鉄橋)がかかっている 少し下流には24線の通称「一条橋」がある その名前が欄干に書かれていたような気がするが 記憶がはっきりしない 何度も融雪時の洪水で流されたものだ 写真の線路の橋にのんびりと座っているのは 村上味噌醤油店の長男 澤田さんと思われる 開陽の拓殖実習場に通っていた時代ではないか 隣に立っているのは服装から判断して馬追いさんに間違いない 当時 印半纏を大きな店が開店のときに配っていたので 書いてある文字が読めたとしても その店の店員というわけではない 後ろに見える丸山の頂上の小さな社は 以前は麓にあり 丸山という名前も殖民軌道ができた後に 頂上に社が移されて その時に付けられたと思う この写真は平行していた砂利道から たぶん佐藤恒市さんが昭和7,8年ころに写したものではないだろうか・・・と言う感じでした
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開陽台から歴史が見える
http://denseikan.exblog.jp/33838717/
2024-02-16T09:16:00+09:00
2024-02-16T13:52:02+09:00
2024-02-16T09:16:40+09:00
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かたりべ談義
その1 寛政十二年 1800年 伊能忠敬
江戸から 蝦夷地の果て 西別まで
子午線1度の距離を知り 地球の大きさを求めるため
歩数を数え 角度を測った
その2 国後島 泊港と海峡 ゴローニン事件の現場
1811年 文化8年 「日本幽囚記」ゴローニン リコルド
司馬遼太郎「菜の花の沖 」の元ネタ 高田屋嘉平
ペリーも黒船で来航する前、ニューヨーク、ロンドンで入手し日本研究した
その3 明治7年 ベンジャミン・S・ライマン地質学者が
標津からチライワタラへ 馬で調査 報文 北海道史
この地域の発展には気象観測と通信網の必要性を指摘
1920年<大正9>8月30日、フィラデルフィアで84歳で死去。
ライマンは終生独身で、菜食主義の実行者であり、日本をこよなく愛した外国人の1人
その4 1931年 昭和六年 北太平洋航空路 中標津上空
リンドバーグは 北太平洋航空路開拓のためニューヨークと東京を結ぶ最短距離 大圏航路を飛行してアラスカ 北千島 国後島を経由して根室に着水した その直前 中標津尋常小学校 根室支場上空を通過したのを目撃した証言がある歴史が見える
メモ 開陽台七不思議 など
日出の前に国後島に巨大な光の塔が見える 日の入りが1日で4回か5回も見える
330度の地平線は 全て町外
武佐岳の30度の陰に知床を隠している
上空の蒼い空に飛行機雲が無い
水平線近くの国際線航空路が見える ただし日の出前
巨大な火防線が眼下にあるのに気がつかない 四角い太陽は すでに充分におい有名なので「ふしぎ」には入れていない
地平線を深掘り ただ地平線が丸く見えるだけでなく地平線の上に空 そして宇宙地平線の下には大地 そして地球
テーマソング Blow Blue Wind by chanters CD
https://denseikan.exblog.jp/32833164/
相馬妙見神社跡に何もない 開拓の痕跡 中標津原野の北端 23線23号 ハチミツの秘密 武佐川の源流
川沿いにスキーで走れば 下り坂ばかりで上武佐まで行けるかも
昔は馬橇で材木運び
上武佐に 材木集積所 土場があった標高差250 mの展望台 から30mの上武佐
光のメッセージ 国後島からも見える丘 背景は山 ゴルバチェフ来日直前 その後ビザ無し交流へ
武佐岳の頂上からは エトロフを含めた四島が見えるが 展望台からチャチャ岳の手前の右側の山の陰に択捉島南端ベルタルべ山がかくれてる
水平線のように見えるが 双眼鏡で見ると国後のケラムイ岬と歯舞群島 そして根室半島で その向こうの太平洋はギリギリ見えていない 水平線と言えるのは知床岬とルルイ岬の間の海峡の向こう オホーツク海は水平線の向こう側だ 超望遠レンズなら わずかに水晶島と根室半島の向こうに太平洋が見えるかもしれない
ドローン リモート登山 展望台から武佐岳頂上まで往復ドローン登山
ドローンなら 展望台の西側の地平線が近いので日没を何回でもくりかえせる
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根室単複 森の男 著 男女共学
http://denseikan.exblog.jp/33671598/
2023-12-09T14:40:00+09:00
2023-12-09T14:44:32+09:00
2023-12-09T14:40:57+09:00
denseikan
歴史資料
http://blog.livedoor.jp/denseikan/nemuro_tampuku.pdf
戦後間もないころの僻地教育の機関誌
ガリ版印刷の「根室単複」より
單複今昔物語 第十話
男女共学
▼三次と信子の場合▼
森の男
男女共学と言う言葉は、戦午始めて出来たように思う人もあるが、私共単複人には何も新しい言葉でもなく むしろ聞き古した事案でさいある。何故ならば、私達の祖父母たちの学んだ江戸時代の寺小屋教育が男女共学で、その后明治となり大正、昭和となった今日でも単複校は依然として男女共学である。
都市に学んだ者にのみ奇異に感ずるであろうが、田舎では男女共学、兄弟 (姉妹)共学である。
父母兄弟一家団欒するように、学校でも先生と生徒が 談笑の中に学んで行く様は学校とでもいうべきで、極めて自然であり又教育的でもある。
夕餉がすんだ后、彼の父は「三次、一っと一っで何んぼだ」、「二っだ」。「ニつと三つでは」。三次は指を折って数え、「五つだ」 父は更に「五つと六つでは」、「・・・」。
十以内なら指を折って教えるが、十一以上は不能であった。
「三次よ、一体お前はいくつになった、年令は」、「おど、おれの年令知らねえのけエ」。「おどは知ってるだど、お前は自分の年令を知ってるだかア」
「知ってるで イ、十四だ」、「十四にもなって、一年生でもやれる勘定が出来ねエたア情けねエでかよ」。
彼は白痴に近い低能児であった。三次が三四才頃に脳膜炎を患ったのが原因であった。 父親が嘆くように先生も種々苦辛したが、どうにもならなかった。止むなく同学年を二年やらせて進級せしめることにしていた。それで今年十四才で四年生になったのである。
「眼が近い代わり耳が遠い」という人もある、三次は勉強が出来ない代わる悪戯が人一倍優れている」だから誰え彼の隣に座ることを好まない。
それで先生は、四年生中最優秀児「のぶ子」を隣席に配した。
「のぶ子の家は中流以上の農家で、学業成績ばかりでなく運動もやるし、 服装もキチン としているし容貌も良く、人の面倒も見る所から、級友の信頼も厚かった。
隣席の三次は勉強もせず、いたずらばかりして自分勉強を防げるので或る日幼稚園の読むような絵本をもって来て与えた。
三次の家には元より絵本など一冊もなかったので珍しいから、温順しく、それを見ている。信子は自分の勉強が済めばそれを読んでやる。
教科書はむずかしくて歯が立たない彼でも、鬼と猿に相撲を取らせる金太郎の話や、お婆さんの拾ってきた桃から赤ちゃんが生れる桃太郎の話はよく了解出来るので、興味を持ち、信子の読むのをじっと聴き入っている。信子に二、三回読んだ后「三次さん、こんど字を書いて見ましょうネ」とノートを出し
「お相撲を取ったのは「うさぎ」と「さる」行司をしたのは「しか」と書いて行く、三代っ子の手本に頼って書いて行く。 出来れば赤クレオンで○を与えて賞揚する。彼は、かつて先生から〇をもらったことがないのに、この小さい女先生は〇を呉れるのだから、ほんとうの先生よりも他のどの生徒よりも好きになり且つ信頼した。
信子はこうしてカチカチ山、猿蟹合戦、マン画の本等で仮名を教え、日曜には、三次の家へ遊びに行って、いろは歌留多遊びをして平仮名、片仮名を完全に指導した。
算術(今の算表) はお手玉やはじきを以て指導した。信子の指導方法は遊びながら勉強するのだから面白い、目や口や、手を使って勉強するのだから、脳の働きが少々足りなくとも覚える。
十以内の加減はこうして指導した。十一以上の指導に相当苦心したようだ。
彼女古葉書をたくさん集めてきて、二人で十枚づつ束ねた。先ず、十、二十、
三十.…と百までの数え方を教え、次にそれにバラの葉書を添えて十一、十二、十三・・・二十一、二十二、三十三 というふうに進んで行く。
二人の間に興味(三次の習い覚える興味と、信子の教育効果と)二人の愛情、真理探究の心が増し、且つ深まって行った。
仮名を覚え十以内の加減を会得し、百までのと唱え方、書き方を覚えた頃に彼等は五年生になった。
今迄隔年に進級したのに、今年は特例で同一学年を一年で進級した三次の喜びはどんなであったろう。
それにも増して喜んだのは彼の指導主任であった信子であった。
五年なってからも三次と信子は組んだ。それは三次も信子も望んでおり、
先生も彼等を十分知っていたからである。
國語の本も漢字にふり仮名をしてやれば、教科書を独りで読んでゆけるようになっていた。 尤も普通文は、その二、三割が漢字であとは仮名であるから仮名さえ覚えていれば読めるものである。
算術はどこまでも実物教授である。
「七に八を足してみましょう。葉書を七枚、別に八枚出してごらん。葉書を八枚の方へ、七枚の方から二枚とって来て十枚。 七枚の方は二枚やったから五枚、みんなで十五枚。
減法は「十五枚から六枚を取って見ましょう。十枚たば一つとばら五枚ですよ。五枚からは六枚とれないから十枚たばをほどいて十枚から六枚とって四枚、この四枚とバラの五校で九枚、だから十五引く六は九」。
こんな風にして五年六年と二年の間に掛算九九は勿論、大ていの加減乗除はやれるようになり、彼は十六の春、卒業証書を手に「ほたるの光」の唱歌を最后に感激の涙をもっ て、なつかしい校舎と敬愛せる信子先生とに別れをつげたのである。
その学校には高等科は設置していなかった。高等科に上がるにも都市に出なければならぬ。三次の家はあまり裕福でないから、たとい優秀な子でも上級学校へ出せる資力はない。増してやお情けで尋常小学校を卒業さしてもらった三次、第一本人は上級学校へ行こう等とは思ったことも考えたこともない,そうかと言って十六にもなり、並外れな図体をしてブラブラ遊んで居るわけにも行かず、どうしたものかと思案していたとき、K市の或る呉服店で小僧に欲しいと近所の人が話を持ちかけてた。
「こんなうすのろが勤まるかどうか」と、親は危ぶんだが本人は行って見るというので、その店に奉公することになった。
彼は自己を認識していた「俺は頭が悪い。物忘れする、だから何でも書いて置くことにする。それを暇あり次第複習しよう」と、手帖と鉛筆は離さなかった。品名、定価、売上、貸付等の雑用までこまごまと記入して置く。故他の小僧の記憶より三次の記録の方が精密であり確実であった。
それに彼は体が大夫である所から、店の拭き掃除、使 い 走 り は勿論、台所の用まで骨身惜まずコマ鼠のように働いた。
尚夜分は算盤を練習した。正直で勤勉で親切で確実である彼は、主人や番 から厚く信頼され、今では立派な店員となった。
彼は常に述懐して曰く
「俺の今日あるは三つ年下の、信子先生のお陰だ」と、信子への通信は怠らなかった。
昭和二八・二・ニ七
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凍れ薯(しばれイモ)名人
http://denseikan.exblog.jp/33627124/
2023-11-25T15:51:00+09:00
2023-11-25T15:51:16+09:00
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denseikan
かたりべ談義
中標津町・酪農家 房川喜延さん
中標津の開陽台から転げ落ちると房川牧場にたどり着きます。
しばれ薯というのは、いわば凍結乾燥馬鈴薯、根釧原野の人々が大冷害を乗り越えた命の食です。
「秋に薯をトワイン(牧草をしばる紐)で縛り、軒先につるして凍結と融解を繰り返し、春になってからアク抜きを何度もしてからミキサーですりつぶして、袋に入れて冷凍します。
食べるには電子レンジで解凍、過熱して煮えたところで塩味をつけます。丸棒状にして1cmくらいの厚さに輪切りにして揚げると出来上がりです。
棒でのしてからガラスのコップを使って丸く抜き出すようにすれば形の揃ったものができます。中に紅生姜をいれたり、黄色いのはカボチャ、その他ヨモギやアイヌ葱を入れたら根釧原野名物になる・・・」と奥様といっしょに親切に作り方を教えていただきました。
遠く南米ペルーの中央アンデスの高地、インカでは紀元前から「チユーニョ」とよばれて毎日食べられていたことがわかりました。
かつては「チユーニョの無いスープなんて、愛の無い人生のようなもの」ともいわれ、石臼で粉にしたものを入れた肉入りシチューは4000mの高地に住む人々の体や心を温めていたことでしょう。
亜寒帯地域である根釧原野と赤道直下の高地とが、気温変化の大きさ、厳しい寒さと強い日差しのおかげで、共通の食材「しばれいも」でつながっているのです。
(文 写真 飯島実) 2006年1月 フリーペーパー じゅう箱のスミ 第10号に掲載されたもの。
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攻撃は一度だけ受けたけど・・・
http://denseikan.exblog.jp/33623071/
2023-11-23T18:13:00+09:00
2023-12-12T06:04:16+09:00
2023-11-23T18:13:04+09:00
denseikan
かたりべ談義
伝成館で20年近く続いていた語り部談話室そこで伺ったお爺ちゃんやお婆ちゃんのお話の中から 戦争に関連した 印象に残っていることについてお話します
20年間も毎週水曜日の午後にやっていましたが、実は戦争をテーマにお話ししていただいたことは
一度もありません。本当につらかったときのことは 話すことも 聞くこともできないのです 今回は 戦争を乗り越えた話や 終わって嬉しかった話などが中心なので あまり心配しないで聞いてください
まずは 自己紹介を兼ねて校歌の話から始めましょう写真は 杉並区の都立豊多摩高校の校門あたり入学した当時は木造校舎でした制服も校則もない学校です
大先輩が谷川俊太郎さん そして 宮崎駿さんたぶん みんな下駄での通学です
中標津東小学校の校歌の詩を書いてくれた谷川俊太郎さんが通っていた時代は まだ旧制中学でした 東京府の豊多摩郡は 武蔵野にありました そこは武蔵野の三鷹といえばスタジオ ジブリのある場所で中島飛行機の工場跡地は米軍宿舎グリーンパークその場所を なにもない原っぱにしてほしいと運動し都立むさしの中央公園というユニークな公園となり紙ヒコーキのメッカとして 世界的にも知られる場所になりました
東京空襲は 106回もありました 谷川さんは在学中に大空襲を経験しました 宮崎駿さんは まだ ちっちゃい子どもの時代ですお父さんは零戦の方向舵などを造っていました 私は 終戦から4年ほど経ったころ生まれましたが 下町 両国の家は空襲で焼け 戦後は都営住宅で育ち すぐ近くの豊多摩高校に入学しました
谷川さんも 宮崎さんも 作品の中には 時間と空間 そして平和が描かれているような気がします卒業のときに贈っていただいた詩があなたに
です
次は巣守さんのおばあちゃんのお話太平洋戦争の開戦後 間もなくご結婚されて すぐにご主人は出征し 大陸の戦場に行かれました4年ほどの戦争がやっと終わって それからさらに半年ほど経った3月6日吹雪の夜の最終列車で 事前の連絡も無く 突然戻ってきてくれました上武佐の駅から 大きなリュック(背嚢)を背負って 俵橋17線の家に戻って来られたときは生涯で一番うれしかった瞬間だったとはなしてくれました 偶然 記念すべき3月6日だったので 思い出しながら語ってくれましたその後、ご主人は 馬を買い、市街地の神社下に引っ越して 昭和24年からは馬追さんとして 材木を運んだり 石炭を配ったり馬での開墾もして 働きに働いたご主人だったそうです馬の肩のガラオオイに「中標津町 巣守」の文字が誇らしげに見えますこの写真は 今の役場あたりで切り出した巨木を中央通りを通って 駅裏の製材所まで運んでいる様子です 馬追さんというのは 当時の花形の職業だったそうです
次の写真 若い軍属です 農事試験場本館前 オンコの樹も戦争中は農業試験場の本館(現在の伝成館)も防空監視に使われていました若い軍属たちの 健康な眼と耳が役に立ちました暖かそうな外套を着ていますが 交代で一日中 昼も夜も 屋上で空を眺め 耳を澄ませていたことでしょう飛行機を敵か味方か識別できるように訓練を受け機種 機数 方向 距離 高さ 飛行方向などを報告するのです 伝成館の建物は 攻撃を受けた記録はありません 巣守のおばあちゃんによればアメリカ軍の若いパイロットの眼には この建物は協会のチャペルに見えたのだろうとのことでした その他にも若い軍属は計根別飛行場で気象観測の仕事もしていました毎日6回の定時観測を行い 電信で札幌 豊平の本部に報告します気象観測所には若い女性の軍属もいて 軍隊にしては華やかな部隊でした。 終戦のころの様子は 気象観測所の所長による 次の記録に書かれています 計根別の若き戦友たち 要点抜粋計根別の若き戦友たち 昭和二十年八月十八日、終戦から三日目、陸軍航空隊 最後の飛行日だった。村のお歴々、そして希望する誰でもが軍用機に同乗できるというので、わが気象観測所の若い軍属たちも異常に興奮していた。私は女子軍属には厳しく同乗を止めた。少々ヤケ気味の飛行士達が若い女性を乗せたら、どんな飛行ぶりをするかわからない。 中略 終戦の前のころ 川筋から雪が消え始めると、すぐ福寿草が咲いた。野生の福寿草に驚いているうちに、カシワの森の下には スズランが群生して咲き出す。近くの小さな川で大きな岩魚を、毎分なん尾も釣り上げてみたり、原野の美しさに心をうばわれたり、戦いを忘れた束の間であった。雪解けと共に飛行部隊の訓練も激しくなった。小さな対地上戦用襲撃機で 特攻(神風特攻隊)の訓練を始めたときには、戦局の最後と覚悟した。他の中隊は夜間訓練、霧を恐れ乍ら飛び、霧の観測をした。残りの中隊は、早朝、千島列島に敵潜水艦攻撃に出勤し、私たちは休むことができない気象観測を続けていた。 七月に敵グラマンの襲撃を受けた。機銃掃射の中を我が軍属たちは駆け抜けて勤務に就く。私は教育の成果に恐ろしさを感じたものである。疲労の極みの中で終戦となった。カシワの葉の緑が強く光っていた。 終戦で号泣した。そして観測所を閉鎖し、解散し、兵を引き揚げた。計根別を去るときにまた号泣した。あの涙はなんであったのか。敗れた戦いに泣いたのか。国に捧げた青春に泣いたのか。軍民一体の花の観測所の成果に酔って泣いたのか。軍属たちと別れの時、十年後の再開を約束した・・・。 別の写真で当時の学校の様子を見てみましょう開陽実家農学校や 開陽尋常小学校(国民学校)の朝礼の様子
で雰囲気が伝わってくるのではないでしょうか
詳しい内容は 玉沢さんの「武佐岳 わが故郷」に詳しく書かれています武佐岳 我がふるさと
つぎは 開陽の蜂蜜のはなし吉原一雄さん提供の殖民軌道の停車場の写真です昭和12年12月 鉄道が標津と標茶、厚床につながったことで この殖民軌道のガソリン機関車は廃止となりました 開陽の軌道倉庫で最後の便を見送る人たちですが、拡大して よく見ると中央の向こう側に 吉原さんのおかあさんの顔をみつけました 写真の持ち主も気が付いていませんでした 人気ものの奥さんだったそうです 吉原一雄さんは 広島の部隊で原爆の直撃を浴びたものの、爆風で40mも飛ばされ 木陰に救われ奇跡的に焼けどを負わず、なんとか広島から開陽まで列車や船を何十回も乗り継ぎながら戻って来られました その息子さんの看病をするため お母さんは 毎日のように蛇や鳥の生き血を飲ませてくれたそうです原爆症とたたかいながら実科農学校で学んだ養蜂の技術を活かし原爆手帖も使って鹿児島から北海道 中標津の蕎麦の花まで 花から花へ 花を追いかける仕事を何十年も続け蜂蜜のおかげで健康になることができました 開陽台の名物でもある蜂蜜には そんな背景もあるのです
次のカラー写真は戦後 生活が安定したころ房川さんが撮影した房川家ご一家とお手伝いの皆さんです中央がお父さんの一良さん1918年(大正7年)チェコスロバキア兵救出を名目上の目的とされたシベリア出兵で 所属部隊は全滅し たまたま斥候、偵察に出ていた一良さんだけは奇跡的にご無事で帰還されましたまた残虐な尼港事件(アムール川の河口のニコラエフスクでの虐殺事件)やシベリア経由で広がったスペイン風邪の悲惨な状況も体験して来られたと推測しています以前から 開陽で 房川一良さんが 衛生に厳しいといわれていることは聞いていました。或る日 お葬式でもらったお饅頭を食べている子どもたちをしかりつけ 口の中から餡子を吐き出させ、指でかきだしたというのです。 開陽の人たちにはその理由がわからず、永年語り継がれていた出来事なのですが、私がスペイン風邪のことを調べていて、やっとその理由が見えてきたのです。 衛生兵でもあったらしく、獣医の仕事もできるほどの知識のある方だったそうなので、感染症のことを心配してのことだったのでしょう。 終戦の日以来 その髭を剃ることがなかったのはいつまでも平和が続くことを願ってのことではないでしょうか 中標津の丸山公園にある慰霊碑には 戦没者197名のお名前があります
おわり]]>
防風林と馬橇に救われたはなし
http://denseikan.exblog.jp/33557923/
2023-10-29T11:42:00+09:00
2023-11-03T16:51:04+09:00
2023-10-29T11:42:13+09:00
denseikan
かたりべ談義
戦争が終わり、標津村から分村して中標津村、そして中標津町となり、テレビの時代が訪れた昭和37年(1962)、武佐岳の麓にNHKの中継アンテナが建設され、全国に中標津町が紹介されました。
「テレビ展望台・開陽台スキー場」には、初代の小さな木造の展望小屋も造られました。(写真) その開陽台からは10km程の場所にある武佐小学校に、昭和35年、旭川学芸大卒で、未開地での教育に夢を抱いている先生が赴任してきました。 そのころは、家ではやっと電気が使えるようになったものの、電話はなく、有線放送を使って連絡事項を伝えていました。 そんな時代、昭和39年(1964)の出来事です。
天気の良い冬休みの或る日、希望者の男子6人を連れて、話題の開陽台スキー場に出かけました。手作りのスキーを自転車や原付バイクにくくりつけ、防風林の間を2本、3本と通り抜けます。10キロほどの、なだらかな昇りの道でも、話をしながら行けばすぐに到着です。
午前中に2時間、おにぎりを食べて午後からも1時間ほど楽しく滑っていると、東の空模様が怪しくなってきました。風も出てきたので、急いで開陽の市街方面に歩いているうちに、雪雑じりとなり、風も強くなり、郵便局のある交差点を武佐方面に曲がった頃には、まさに一寸先も見えないほどの猛吹雪になってしまいました。
かつて、昭和8年の猛吹雪で、この開陽で2人、養老牛では4人もの子どもたちが亡くなりました。当時は、防風林を植え始めたばかりの時期でした。 それから30年ほど経った昭和39年のカラマツは、立派に育ち、風を弱めてくれています。
7人は、防風林の風下側に集まり、枯枝を集め、たまたま持っていた灯油を使って焚火で暖を取ります。
先生は、開陽小学校に助けを求め、武佐小学校に報告したところ、校長から「大切な子どもたちを殺すとこだぞ」と、しこたま怒鳴られました。
そして、子どもたちを避難させている場所から2kmほどの農家に有線放送で連絡がつき、馬橇で助けに来てくれることになりました。
30分ほどして、吹雪の中から馬の鼻息と鈴の音がシャンシャンシャンと聞こえてきたとき、皆一斉に「助かったー」と叫びました。そして全員元気に家に戻ることができました。 完
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薄暮の飛行艇
http://denseikan.exblog.jp/30967143/
2023-09-01T11:07:00+09:00
2023-09-01T13:01:39+09:00
2019-12-15T16:36:03+09:00
denseikan
航空
夕日に向かって
大阪行きの最終便が飛んでゆきます
桟橋には「水中翼船」の看板も見えています
昭和35年から40年代のはじめまで、陸上の滑走路をもつ南紀白浜空港が完成する昭和43年以前の白浜路線に就航していたのが、水陸両用の飛行艇やフロート付きの水上飛行機でした。
紀伊半島の南部、和歌山県の南紀白浜が「憧れのリゾート」「豪華な新婚旅行」の地であった時代の貴重な写真が見つかりました。
使用機は主にグラマンG73「マラード」。
双発の水陸両用飛行艇が主に使われていました。
この他、フロート付きの単発エンジンのオッターなどもありました。
航空会社は当初「日東航空」、後に「日本国内航空」が運航していました。
大阪は、当時は平屋のターミナルビルだった伊丹空港から出発です。 料金は約3000円、高級スーツが買える程の金額でした。
陸上の滑走路から離陸し、ゆっくりと上昇してゆきます。
甲子園球場を眼下に見ながら、海岸線を和歌山にむけて南下します。 紀ノ川、御坊を過ぎ、南部梅林の上空から白い砂の海岸が見えてくるとエンジンを絞り降下します。
円月島をかすめ、三段壁や千畳敷を見ながら、
この時代にはまだ特権階級のものであるゴルフ場の上を通過して、
島々が点在する田辺湾に進入着水します。 飛行時間は40分弱。
星形のエンジンの騒音と振動がなくなると静寂な水面に漂う別世界に変わります。
浮桟橋に飛行艇をつけ、連絡ボートに乗り換えて「綱不知」(つなしらず)と呼ばれる、静かな入江、温泉の町に向かいます。
白砂の浜、夕陽が奇岩の小島に沈みます。
双発エンジンの形から、関係者は「コルゲン・コーワ」と呼んでいたそうです。
操縦席のスロットル・レバーが上の方にあります。
客室からの入口の不思議な形
なぜか扇風機がひとつだけ
いい雰囲気をかもし出しています。
6人の乗客と スチワーデスも乗っていたようです。
飛行艇の場合、構造的に相当重くなるので、乗客は
あまり乗れないのだそうです。
やはり高級な乗り物だったのですね。
このマラード飛行艇の愛称は「くろしお」
すこし小型のオッター水上機のことを 関係者は縁起をかついで
「アッター」と呼んでいたそうです。
この他にウィジョンという飛行艇が使われることもありました。
ちなみに、当時、就航していた水中翼船の愛称は「つばさ」。
飛行機と船が逆のようで、おもしろいですね。
一日3往復ですが、繁忙期には、2機で大阪との間を
7回もピストン輸送をしたこともあるそうです
上空近くまでは計器飛行(IFR)で運航していたようで、問題は波と風でした
海水に降りるわけですから、整備には手間がかかったことでしょう。
白浜から伊丹に向かったマラードの油圧(ハイドロ)が低下して、
車輪が片方降りなくなり、オイルの代わりに、コーヒーを足したり、
しまいには おしっこ まで入れたという話を聞いたことがあります
結局は片足着陸をしたそうです
さらに時の流れをさかのぼります。
戦前の昭和10年ころ、大阪の木津川飛行場から複葉の水上飛行機が
白浜に飛んできていました
その頃の写真(白黒)が、白浜温泉の白良湯の壁にかかっています
大阪飛行場(木津川)から白浜の路線と、
高松経由、松山、別府を結ぶ定期航空路線がありました。
通称「一四式」水上機 軍から払い下げられた機体を組み合わせたもので
エンジンはV型8気筒のベンツ 日本航空輸送研究所が運航
白良湯の一階 玄関の休憩所に飾られている写真です。
片山久太郎操縦士と藤堂機関士が写っています
旅客は四名
やはり田辺湾に着水し、波が静かな「綱不知」の入江で
艀(はしけ)を使って乗り降りしていました
遊覧飛行は、波が静かなときに白良浜で行われていたようです
ツナギの服のすそをまくり上げている係員は
乗客が濡れないように、背中に背負って運んだのです
芸者さんが、手に履物を持ち、裾をたくし上げ
若者に背負われているときの、表情が見えるようです
赤い腰巻、白い素足が刺激的です
当時、日本飛行学校や「日本航空」も木津川飛行場を利用しており、
羽田との間の定期航空としてフォッカー機が就航していました。
下の写真は、日本航空輸送研究所の所有機で、
木津川飛行場での遊覧飛行や訓練に使用されていました
1935年(昭和10年)6機のAB-4飛行艇のうち3機が日本航空輸送研究所に払い下げられ、1機は貨物機として使用、2機は日本飛行機で旅客用飛行艇に改造。操縦席は機種の銃士席に移され、客席が追加された。1機はエンジンを高出力のネイピア ライオンに換装された。日本航空輸送研究所ではAB-4を定期運行や観光飛行に用いた。昭和12年5月27日に堺市の工場の煙突に衝突し、5人の犠牲者を出す事故を起こした。(wikipedia)
愛知AB‐4型飛行艇
日本航空輸送研究所での愛称は「カラス」
六試小型夜間偵察飛行艇の民間型
エンジンは東京瓦斯電気工業製
の6気筒空冷直列エンジン「浦風」
次は英国製 サザンプトン飛行艇 麒麟号
機首に「麒麟麦酒」のマ-ク
大阪の木津川 進水式でしょうか。 椅子が並び、図面を持った担当者などが最後の準備をしているようです乗客らしき親子もいます。帆船や軍艦のような姿も遠くに見えています 機体を川辺まで横に移動させるレ-ルと、水面に降ろすためのクレーンが見えます
この時代、すでに「エア・ガール」と呼ばれる女性がいて
主に地上での乗降の案内係だったようですが
ときには同乗し接待することもあったようです浜寺の羽衣高等女学校卒業の岡本徳子さん(当時19歳)は
後に二等操縦士の資格取得し、フランス製の軽飛行機
「空飛ぶシラミ(プー)」に搭乗していたそうです
どのような人生だったのか気になるところです
戦争に向かって突き進んでいる時代
南方熊楠が活躍している南紀の自然豊かな温泉地は、
有力者、政界、軍人にとって
どういう意味合いのある地域だったのでしょうか
蒼い空 碧い海 白い砂浜 緑深い山々
夕陽を背景に繰り広げられたドラマが眼に浮かびます。
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伝成館アワー FMはな音源再生
http://denseikan.exblog.jp/33322500/
2023-08-13T16:54:00+09:00
2023-08-15T17:05:44+09:00
2023-08-13T16:54:38+09:00
denseikan
NPO Diary
● 開陽ステーション ゲスト 太田イツ子さん 約30分
● 開陽ステーション ゲスト 土田良吉さん 約30分
● 語り部談話室 ゲスト 田澤 潔さん 約2分
● 語り部談話室 語り部 房川喜延さん 約9分
● 伝成館アワー デンマルク国のはなし 30分程度
● ミニFMなみき道 食茶房なみき道 開店 15分程度
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むかし昔のこども達
http://denseikan.exblog.jp/33018018/
2023-04-21T14:39:00+09:00
2023-12-09T17:58:38+09:00
2023-04-21T14:39:45+09:00
denseikan
歴史資料
PDF 紙しばい
YOUTUBE ナレーション付き
YOUTUBE BGMのみ
中標津市街一条通り 昭和の初期の中央十字街 後ろを振り返っている子は たぶん いぬい君(大正生まれ)乾商店の看板と標柱 反対角には街灯(ガス灯かも)がポイント
元画像提供は 中標津郷土館 着色加工は 伝成館殖民軌道中標津停留車場ラッパの合図 そろそろ到着か俣落発電所で ヒコーキを持った むとう君]]>
Google Earthで探る 日本神話の世界
http://denseikan.exblog.jp/32994233/
2023-04-10T22:12:00+09:00
2023-04-11T09:57:25+09:00
2023-04-10T22:12:29+09:00
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Google Earth
古事記の神話の世界、イザナギノミコト、イザナミノミコトの国生みの神話の舞台が見えている。海原に下ろしたほこを、「こをろこをろ」とかき回してから持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となったのが「オノゴロ島」だ。淡路島の南に、まるで勾玉のような形の島、さらに柱状の奇岩まである。紀ノ川と吉野川の位置関係も重要だ。中央構造線の位置で向かい合っている。 日本列島のルーツが、まさにこの地点だ。淡路島 伊弉諾神宮の石碑
剣山頂(1995m)から阿波路、生駒方面を眺める。
さらに「日本書紀」の中に重要なことを見つけた。天武天皇の時代、684年に白鳳地震があった。「南海トラフ」巨大地震だ。道後温泉も埋まり、巨大な津波により四国は壊滅状態だった。古事記、日本書紀の編纂を命じた天武天皇と、その後を継いだ持統天皇は、藤原京に遷都し避難民を受け入れた。近年の研究で、四国の阿波に「邪馬壹(ヤマトゥ)國」があったことが、古代の天文学的にも、水銀朱が、唯一ここでのみ採れたことからも明らかになっている。卑弥呼のことを「日本」の歴史から隠すのに、この大災害が利用されたと考えられる。このことは今後、しだいに明らかになってゆくはずだ。魏志倭人伝の距離、方位も正確にこのことを示している。女王国に至るルートも、潮流の厳しい海峡をさけて宇佐からの水行と、松山から中央構造線を使う陸行により、迷うことのない最短ルートになる。その際に剣山が、海沿いや谷あいからも見えるので、位置、方位、距離を知ることができる。]]>
なかしべつ的街並み 「隅切り建築」
http://denseikan.exblog.jp/32985043/
2023-04-07T18:00:00+09:00
2023-04-09T11:45:23+09:00
2023-04-07T18:00:34+09:00
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かたりべ談義
ずいぶん以前から 中標津町の街並みを見ながら 角を落とした建物が特徴的だと思っていた先日 街歩きをしながら たぶん建築基準法やら道路交通法とか お役所の関係だろうが もう少し 風情のある背景がありはしないかと 想いめぐらしてみた
かなり歴史のある建物
中央通りや本通り 旧一条通りなどの交差点
かつては そうとうに人通りが多かった
歩道のロードヒーティングがされていた時代さえある
まあ建築の門外漢としての かってな想像だが
戦後 中標津町が激しく成長した時期
密集した区画に
一気に大型商店が建設された
その際に
交差点の見通しを良くして車が走りやすく
たくさんの歩行者が歩きやすく
そして
除雪もしやすいようにするために
角地の「隅切り」が推奨、指導された・・・
むしろ
建築主が 街の景観を良くして
住みやすい街にしようと
隅切り部分の交差点に面した壁面の
看板や 出入口などのデザインで
街の景観を近代的、西欧風なものにするため
積極的に隅切りをして
交差点を広くしたのかもしれない
方向について
中標津の区画の方位は 47度ずれているので
角から交差点の中央に向かう対角線が
ほぼ東西南北
外国の風景
自転車にやさしい街
デンマーク コペンハーゲンとか
スペイン バルセロナ
戦後の発展期の中標津では どんな議論があったのだろうか
5月27日 土曜日 午前中の街歩きの時にでも
関係者に聞いてみようか
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川北乙基線の秘密
http://denseikan.exblog.jp/10093147/
2023-03-27T03:58:00+09:00
2023-03-27T03:58:00+09:00
2009-01-09T16:15:56+09:00
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歴史資料
道道863号川北茶志骨線の10kmほどの直線道路です。
この道は川北の基線道路の交差点の越えてさらに山の中に続き、やがて未舗装となります。
正面の山々の中で、目立つのは左手の尖峰(953m)、そのさらに左の画面の外には武佐岳があり、逆に右側には知床の山々が続きます。
直線道路の延長線上、稜線の上にわずかに頂上が見えるのが斜里岳(1547m)です。
そうです。 この直線の基線道路は斜里岳の頂上に向かっているのです。
斜里岳の頂上付近には、三角点もあり、さらに斜里、清里、標津の三町の境界もあるのです。
逆に直線道路の南の基点は中標津町と標津町の町界となっている武佐川と標津川の合流点付近です。
直線道路の中間、シュラ川の乙基線橋のあたりで写した画像です。
地デジや自衛隊のアンテナが並ぶ稜線に、遠くの斜里岳山頂が隠てしまうぎりぎりの場所です。
・・・ということは、川北の市街地からは、残念ながら斜里岳は見えないわけです。
この基線が引かれたころ、この地域の国や郡がどうなっていのでしょうか。
根室国の標津村と北見国の斜里村、清里村の時代だと思います。
また、南の基点は標津村の原野の境になっていたのではないかと思うのですが、ムサ原野、標津原野、中割原野の境がどうなっていたのか、調べているところです。
国後の爺爺岳の例を見ても、基線の目標には山頂を使っているようですが、国、郡、村、原野の境については、測量作業のできる場所が選ばれているように見えます。
三角点についても、標識の埋設や櫓(やぐら)の設置ができるような立地条件の場所が選ばれているのだろうと思われます。 どなたか、そのあたりの情報があればお知らせください。
参考 私達の山旅日記から引用「斜里岳の標高は、少々ややこしい。 国土地理院の地形図を見ると、1547mと1544.8mとが併記されてあるからだ。 しからばと、同院の三角点情報を閲覧してみると標高1535.79mとなっている。 山頂の少し手前の低い位置に真鍮製の2等三角点があったので、三角点情報の標高は納得できるにしても地形図の併記はナゾのままだ。 私の無責任な推測だけれど、1535.79mが三角点であるのは間違いないとして、1544.8mは測定点で、1547mは標高点(最高点)、っていうのは、どうだろう。 とすると、各種のガイドブックや山の図鑑などに表記されている1545mというのは測定点ということになる」]]>
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