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日本初の「眠れる森の美女」が明治7年8月31日の標津村だった・・・ということが判明しました。 開拓使のお雇い外国人、アメリカの地質学者 ベンジャミンSライマンの公式の報告書(下)の、標津村で書かれた部分(Shibets 31 August 1874)に、当時の開国して間もない日本を sleeping beauty アメリカを若き王子になぞらえて、当時の状況を説明しています。 上の調査報告の翌年、自ら西洋昔物語「森乃中にねむる美女」を翻訳して「知人」に、その自作の本をプレゼントしているのです。 ちなみに日本での出版は、大正時代の「西洋昔物語」が最初だと思われます。 この出来事の関係者を調べると 薩摩出身で、後に初代文部大臣となる森 有礼(もりありのり)が浮かんできます。奇しくもライマンを米国から招へいした際の担当者であり、開拓使の女学校では憧れの的であったとも言われる人物です。 ライマンの調査旅行の壮行会のパーティーで若き廣瀬常と会い、結局はライマンをさておいて、日本初の契約結婚を福沢諭吉の媒酌で行いました。 また、森有礼は伊勢神宮で三種の神器の鏡の裏にヘブライ語が書かれているのを見たと語ったとも言われ、天皇に対する不敬であるとして暗殺されました。 ちょうど蝦夷地全体の調査を行っている時期にトラブルが発生していたのです。薩摩藩士が中枢を握る開拓使の中では、アメリカ人はかなうはずもありませんでした。煩わしい妨害工作が始まっていたのです。 そんな時期に大冒険の蝦夷調査を行っている中間地点、根室にいるころのライマンの心の中には、まだロマンティックなものがあったようです。 厚岸での食あたりで、まだ体調を崩している時期であり、日曜日の30日は、水晶島行きをあきらめて、別海の風蓮湖で休息をとりました。アイヌの少年と楽しい舟あそびもしたようです。 31日には海岸沿いに標津の浜まで移動し、新たに報告書の後半を書き始めました。その冒頭部分の中で日本をスリーピングビューティにたとえているのです。 明治7年9月1日は、標津をたって斜里への道を、馬で通り、チライワタリ(当幌あたり)で一泊し報告書にまとめています。 その中で、この地域の地下資源にはとりたてて見るべきものはないとしながら、大商人の屋号(又十)がすべての浜の倉庫に書かれていうことや、道や旧本陣が良い状態で維持されていることに触れ、この原野の将来について思いをめぐらしています。きっと1日中、ほとんど平坦な道を馬上で、天気が悪く、山が見えない原野の風景の中で、さまざまなことを考えていたのでしょう。その中には一目ぼれをした女学生、廣瀬常のことなども考えていたことでしょう。 もし、この恋が実っていたら、日本の歴史が少しだけ変わったかもしれない・・・などと、旧斜里山道跡の風景を見ながら想像をふくらませています。
by denseikan
| 2018-01-30 09:05
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