リンク集
カテゴリ
ブログパーツ
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2020年 11月 2020年 09月 2020年 08月 2019年 11月 2019年 09月 2019年 05月 2018年 11月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 06月 2018年 04月 2018年 01月 2017年 10月 2017年 06月 2017年 01月 2016年 03月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 07月 2015年 03月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 お気に入りブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
日本各地から根室原野の奥地に集団での入植が始まったのが100年程前である。
それ以前は、厳しい気候、恵まれない土壌、不便な交通のため、定着して開拓する人がいなかった・・・と認識していた。 ところが、いろいろと調べているうちに、集団入植の前に、なんと百万坪の大きな農場を経営していた人が「中標津原野」にもいたことがわかった。 標津村で官設の駅逓所を営む有力者、芦沢勇吉さんである。 (お役所への貸付申請書の文字は難しい昔の字を使っている) この人に、強く心ひかれるものがある。 残念ながら芦沢農場は大雪の災害で馬や牛の半数を失ったり、跡継ぎのお子さんがいないなどの事情もあり、ご本人が亡くなったあと、大正末には奥さんは財産を処分して四国に転居されたため、今の中標津にはまったくといっていいほど何も残っていない。 ただし、芦沢さんが植えて、育てたカラマツの切り株の薄く切ったものが残っている。 50年以上の年輪が数えられ、中標津が町になってから切り倒されたものである。 「根室要覧」の中標津唯一の写真には農場での馬を伴った勇吉さんが写っている。 農業と牧畜を始めるにあたって渡米して馬耕、とくにプラオの使い方を習ってきたという話が残っており、親しくしていた長谷川藤作さんとはテニスもされたということで、おしゃれで実行力のある方だったことが想像できる。 芦沢さんの農場は現在の「ジャパン」の噴水のようなネオンサインがある19線から東側の標津川とチナナ川に囲まれた土地で、俵橋よりも先の綱橋の12線にまでわたる広大なものである。 その土地の中央あたりとなる16線零号、今のマルエー温泉の近くに写真の牧場の建物があったものと思われる。 露天風呂から見えるチナナ川沿いの林を眺めながら、100年前の中標津を思い描き、いろいろと想像をしてみたいことがある。 もし芦沢さんが先に農場や牧畜をやっていなかったら・・・果たして団体移住による開拓に成功しただろうか。 続く冷害凶作で根室原野の開拓が放棄され、未開の原野のまま残され、せいぜい戦後の開拓が行われた程度で、うまくすれば知床と一体の世界自然遺産になっていたかもしれない。 いやいや逆に最悪の状況としては、どこかの国が実効 支配をしていたかもしれない。 もし幸い芦沢さんに跡継ぎがいて、現在も大牧場が健在だったら・・・標津村が奥地開拓に積極的に関わり、標津村が一体となり、分村して「中標津村」になるようなことはなかったのではないだろうか。 いや、むしろ標津市となり、標茶からの鉄道も残り、根室や釧路を超える主要な地方都市となっていたかもしれない。 もちろん仮定であり、空想ではあるが、スケールの大きな人物だっただけに、長生きされて、活躍していただけたなら、きっとこの地域にプラスの効果があったに違いないと思われ、残念な気持ちになってしまうのである。 ********** 2020年12月 追記 ************ 開陽に団体入植された福島双葉団体の玉沢さんにお話しを伺ううちに、ある事実が見えてきました。 令和2年の現在、新型コロナで世界が変わってしまったわけですが、かつて大正8年のスペイン風邪、当時の言い方では 流感(流行性感冒)が根室でも猛威を振るっており、根室、標津経由で船と徒歩で開陽奥地に入植された玉沢さんのお父さんとお爺ちゃんは、まさにその最中に根室を通り、お爺ちゃんが流感に罹ってしまったそうなのです。 上記の芦沢勇吉さんは59歳と、比較的若くして突然亡くなっているのですが、それがこの年の2月、同じ時期であり、可能性としてはスペイン風邪で亡くなったのかもしれない・・・スペイン風邪のおかげで、標津や中標津の歴史が変わった・・・のかもしれません。 詳細は 引き続き調査中 大正8年の小樽での記録では以下のような記事がある。
by denseikan
| 2023-03-27 02:18
| 歴史資料
|
ファン申請 |
||