川北の善照寺(太子堂)の入口の正面にあるお地蔵さん
「昭和八年一月十八日遭難
西村直江
渡辺定子
渡辺芳子 」
「 供養
幼霊地蔵尊
根室支庁長 」
開拓の初期 原始の森を伐採した開拓地 養老牛市街地で起こった悲劇
現在 モアン山に向かう幹線防風林は この年から植樹が始まり、カラマツは何世代か交代しているものの、トドマツはその年に植えられたものが今も成長を続けている
防風林の成長とともに悲しみが癒えてゆくことを願い 防風林の成長により悲劇の再発が防止されていることに感謝したい
先日 養老牛の西村さんに伺った内容の一部
正月休みが明けた昭和8年1月18日(水) 昼過ぎから雪が降り出し やがて猛吹雪になった
市街地の上級生の女の子たちが掃除当番を引き受け、下級生や遠い子は早めに帰宅させたが、学校と養老牛駅逓の距離60mの間で惨事が起ってしまった
小学生の女の子たちは激しい吹雪で引き飛ばされて窒息、凍死、
開陽では馬橇の上で抱き合いながら夜を過ごした姉が死亡、妹はは全身凍傷の大重体、姉の赤い角巻に守られ生存。
このほか武佐でも犠牲者を出したこの大惨事は、入植して間もない人々にとっては2年続いた冷害凶作に、さらに追いうちをかける大きな打撃となった
この年から さまざまな救済補助事業も始まり 有畜農業に転換するための乳牛の導入や森林伐採の反省による防風林の整備も行われるようになり 現在の酪農郷とその中心市街地としての中標津の発展へとつながった