「・・・ 私の赴任した昭和二年の夏には、ここは原野の中心的要衝ではあるが、鉄道根室本線の厚床からも、標茶からもそれぞれ十三里、わずかに厚床から中標津を経て標津に至る殖民軌道、それも六封度レールのトロッコがあったばかりである。
戸数はわずか二十八戸、標津村の一部落であって役場には五里、それでも原野開発の恩人
乾丈太郎翁は健在で駅逓をやっていた。 その息子乾尹(いぬいすすむ)氏は村会議員、拓殖医は不在、駐在巡査は小川老人、小学校には二学級の特制教授所で校長は飯田作太郎氏であった。 市街といっても美馬、関谷、境氏などの雑貨屋があり、部落有志としては山根、小針、近藤、奥野、西山氏などがおいでになったが、全く数えるばかりの寒村だったのである。
そこに根室支場が忽然と出現し、爾来すべての開発の中心として会議が開かれ、催し物が行われ、道庁からも支庁からも人が来るようになったのである。
市街はだんだんと大きくなってきた。 中村屋の旅館、川口薬局、中尾呉服店、藤田料理屋等々、年と共に加わり、初めもちろんランプであったのが三年後には火力発電所ができた。 そして私が原野を去る昭和十二年には、はや約二百戸に膨張したのである。
(つづく)