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かつて中標津で発行されていたポケット版の文芸誌をインターネットで復刻してみました。
故吉井宣氏ほかの思いが込められた優れた内容を、劣化しないデータにしておきたいと思い、 まずは、摩周岳の麓にハシバミ一族が築き、100年も守った平和な理想郷「シワンプト」について書かれた連載記事をスキャナーで読み込み、OCRで文字にしてみました。 シワンプ卜の人々 (一) 虎沢 吉 東蝦夷の秋は深まっていたが、忠敬(ただ たか)の一行はノッシャムの岬を回り、近 藤重藤が探険した千島であろう島影をはる かに右に見ながら先を急いでいた。 下総国佐原の一農民であった忠敬が、家業 に勤んで生活に余裕ができた時、学問を修め たいと、家を長子に継がせて、幕府天文方の 高橋至時(よしとき)に師事したのが、すでに 晩年を迎えた五十才の時であった。勤勉で根 気強い彼は数年足らずの内に、至時から天文 学・暦学測量の術全てを学ぶことができた。 ちょうどそのころ、蝦夷ではロシヤ人の南 進がはじまり、ロシヤの使節ラクスマンが来 航して国交の開始を求めており、北方の事情 は急を告げつつあった。忠敬はこのとき、残 り少ない生涯と幸いにも学ぶことのできた学問を 後世の人のためにつくしたいと、日本全土を 実測して地図を作ろうと決意したのであった。 至時も彼の意見に賛成し、彼の熱意に動かさ れて、幕府に忠敬の地図を作ることを願い出た のであった。農民の出の彼が持に許されて 士分に取立てられ、「公儀御用掛り」として 実測の旅に出たのは、寛政十一年(西暦1800 年)、江戸の春早くであった。 彼の目標は、急を要する北辺の事情を考え て、冬の来る前に奥州と蝦夷の実測を終りた いと考えていた。彼の一日は、日の出ととも に活動を開始し、海岸線に従って-地点から 次の地点ヘと、天体観測によって方位を定め 鉄鎖の間縄(けんなわ)売引きながら実測を進 めていくのである。海岸から遠望される山地 や島は、その形を鳥瞰図的に、絵画風に描写 して、地名はその地の人々にたずねて記録し ておき、日が暮れると一日一日を整理するの である。 夏の半ばごろ、奥州を終えた忠敬は蝦夷に 渡った。早速、南蝦夷(当時は蝦夷の入り口と いう意味で、口蝦夷と言った)の実測に取掛った が、蝦夷についての知識に乏しかった彼の行動 は、遅々として進まなかった。士分には取立て られていたが、この年の実測はすべて自費だ ったので、食糧を調達することも、従者を見出 すにも困難があった。しかし、幸運にも、ウス の善光寺に立ち.寄る途上の彼は、榛(ハシバミ) 一族に会った。 男女数名のこの蝦夷の-族は、争いのない、住 みよい理想の地を求めて東ヘ移動していたので ある。 後にシワンプトにコタンを構え平和な生活を 送った榛幸太郎の祖父母コモニタラ達であった。 彼らは忠敬と行を共にすることを約束し、寝 食を共にし、兄弟のように話を交してくれる忠 敬を尊敬して、手足のようによく彼をたすけ てくれたのであり、忠敬も亦、蝦夷の先人か ら知識と、自然とともに生きる姿を学んだの である。彼らが山野を抜渉し、湿地帯を越え ていく姿には、全く自然の抵抗を感じさせな い、不思議ともいうベき力を持っていたので ある。 南蝦夷からエリモ岬を越えて東蝦夷に入る 頃には、もう秋風が吹き始めていた。サルル ヒ口ウ、ヲホッナイと断崖の多い海岸を、丸 木舟を使いながら進んでいたが、頭上の木々 はもう色づいていた.トカチ川を渡って平坦 な海岸を、シャクヘツ、シラヌカ、タノシケ ヘツと過ぎてクスリ川に行き当った。対岸は クスリの部落である。川に添って続く台地の 裾に点々と人家があった。部落はずれのモシ リヤのチャシに登ってクスリ川の流れを見た。 遥かに広がる湿原の葺原に、上流の川筋は隠 れて見えず、高く低く東蝦夷の山脈が東ヘ延 びていた。 忠敬はもう江戸ヘの帰途につかなければな らなかった。食糧が不足して、秋もまた足ば やに来ていたが、それよりも、今までの踏査 を地図として仕上げ、見聞した現地の状況を 報告書として作成するのに、三、四ケ月はか かることを考えていた。彼は、あと三、四日 で着くアッケシに、十萬石の格式がある官寺 の国泰寺があって、冬が来る前に幕府の便船 が来ることを聞いていたし、アッケシが今年 の実測地の最終地になるだろうと思っていた。 クスリから四日日にアッケシに入った。国 泰寺に便船はまだ来ていなかった。来るには 来るが、もう一月程後になるだろう。と聞い て、日を計りながら行けるところまで行こう と、荷物の整理をして、測量機材だけの軽装 で再び出発した。 十日進んだら、コモニタラ達とも別れて、 アッケシヘ引返そうと考えていた。トムシリ 岬、ノッシャム岬を回ってから、海岸線は折 返すように向きを変えて、七日日にネモロに 着いた。九日目はフウレンに泊った。森林に 包まれたフウレントウには人影はなく、長い 眠りに入る準備も終ったかのように見えたが 湖面には数知れない水鳥が、騒ぎ回る子供の ようにはしゃぎ回っていたし、北から渡って 来た幾組もの雁が十四五羽ずつ翼を休めてい た。ここは水鳥の楽園であった。 フウレン卜ウの青木の森から出ると、海岸 は広い砂浜になっていた。海流が寄せている のか、東風が強いのか、ところどころに小砂 利と砂が盛り上って砂丘ができ、ボウフやハ マナスがよく育って、遠く北ヘ続いていた。 この日は暖い秋日和で、砂丘で休む一行の 前にクナシリ島(一名ヲムシヤ)のケラムイ の岬も見えるほどであった。しかし実測の最 終日を決めていた忠敬には足どりの重い日で あった。 大きい真紅の夕陽が、空も海も樹海も全て を染めて沈もうとするころ、川口がひどく湾 曲した水量の多い河に到達した。河口の瀬に は何万匹とも知れない鮭が群れて、争って川 を遡上していた。鮭を漁る人が沢山集って、 夕陽に染まりながらマレツポを使って鮭を引 き上.げていた。 (マレツポとは十尺位の棒の 先端から一尺くらいのところに鈎のついた漁 具で、比較的大きな鮭やイトウをとるために 使われていた。棒の先の方で魚の背を打つよ うにして引くと、鈎が下から魚の腹にかかっ て魚を引上げるのである。現在は東南アジア の現住民にまだ残っているという)。ネモロ を出てからは大きな川もなく、人の集まって いる場所もなかったので、人も魚も群れてい るこの光景は強い印象であった。 川岸のハンの木の蔭に小高い砂丘があって そこを中心にして部落があった。ここはニシ ヘツと言い、川向いはヘッカイであるとのこ とであった。 その夜忠敬は、コモニタラ達と焚き火を囲 んで鮭を食いながら、今までの協力を感謝し 今日で仕事は終ったこと、明日は皆と別れな ければならないことを語った。 そして今後、 彼等が理想の地を見出して落着いたら、必ず 連絡すること、なお離れても生きている限り はお互に助け合っていこうと約束した。 淋し い夜であった。 翌日は早朝から丸木舟を使ってニシヘツ川 を上った。 石の全くない泥沼のようなこの川 には、湖のような湿地がいくつもあった。 森 が川岸まで迫って川底は晴かったが、鮭が川 筋を上流ヘ、帯のようになって遡土していた。 四里ほど上って湿地帯は終った。 忠敬は舟を 止めて岸ヘ上った。 道具類をすべてコモニタ ラに与えて、土産の鮭を地元の二人に荷なわ せ、方向をアツケシの方に向けて森の中ヘ去 った。 コモニタラ達は忠敬の去った方に向い て、岸にじっと立っていた。 森は輝いていた。 この年から四年間、忠敬は正式に幕府に登 用され、日本全土を実測したが北海道ヘは再 び来なかった。忠敬の実測地図は伊能図と言 われ、1800年代の世界では最も優れたも のであったが、忠敬についでの記録は少なく 別海町西別に来たという以外はない。 地名は忠敬の実測当時のものを記した。 次号から、話はコモンタラと子孫の生活に進む。
by denseikan
| 2009-07-19 17:58
| 歴史資料
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