碑文の中で摂政行啓のことが書いてある。大正11年7月18日に釧路でお目にかかったのだろうか
設置場所は、当初の丸山公園の予定が変更され、当時木碑が建てられていた場所に設置された・・・との記述が見つかり、その経緯を調査中
「翁の足跡をたずねて」より抜粋
明治44年9月 移住民40人を引き連れ、その団体総代となって標津郡標津村に移住し、支庁の命によって同村各所にこれを配置 専ら農業に従事す、先人未踏太古の根室原野は 翁等の手によって逞しい開拓の第一鍬が打ちおろされ根室原野の農業はここに創設されるに至った。
中略
大正3年中標津14線1号から北標津原野字武佐に至る道路1里半、同4年24線1号から北開陽に向け2里半の私設道路2本を開削、移住民団を督励労働させた、この工事で標津川に大橋2ヶ所、その他大小6橋の仮橋を架設・・・」
やはり 一条通りの木橋は乾さんが架けたものだったんですね 賃金以外の経費も私費で賄ったとは
「14線と24線の教授場も建設 後の俵橋の学校は立木伐採の利益金で、24線の河西教授場は1千15円で竣工させたが、資材に窮し国有林を無断で伐採、監督官庁の詰問を禅問答の応対であっさり片付けたなどの珍話もある。」