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昭和十八年八月二十二日読売報知新聞 P166 元北海道長官 佐上信一氏の手記
昭和6、7年の冷害大凶作 根室原野放棄論がうずまく中での救済事業の5ヵ年計画 さらに日中戦争から太平洋戦争 その中で農民と交わした約束は「陛下の赤子を飢え死にさせるようなことはしないから、十年間がんばってくれ」というものだった。 そして十年の月日が流れた。 「今も私の記縁に残る光景は計根別の麦畑である。 みる限りの麦畑ではあったが、穂は一本もみえず、根元にはジメジメと苔が生えて、その畦には臍 (へそ)をさらけだした子供たちが、もしや一穂の青枯でもと探している姿である。ヒソヒソと話しあう人たちの群をとりまくものは、しめっぽい陰惨な暗い影で、はては″万人のボロの行列″にまで拡大した。 このなかへ私が七年十月のりこんでいったわけだが、当時釧路と根室の両警察署では、″長官がこの騒然たる原野へ足をいれることは危険だから思いとどまってくれ〃と、しきりにとめたけれども、私には私の信念と真心があった。″原野民と共に″、″君たちだけを苦しませはしない″こと、たったこれだけだった。別海、中標津、計根別、虹別の四ヵ所で、私は肝を割って農民と話しあった。 ″だまされたと思って、十年がんばってくれ、笑って手をにぎり、肩を叩きあう日がくるぞ″と。そして標茶まで帰ったときに、釧路署の人たちが、″長官が無事帰った″と胸をなでおろしたとあとできかされた。」 実際、そのころは、道会でも又、言論界でも根室原野放棄論が圧倒的であった。移民を全部他に再移住させて、練兵場にでもして、馬糞で土地を肥やし、そのあとで作物でも作らしたら・・・とさえ極論されたのであった」。 成長した根室原野の姿をみたいという熱烈な願望押さえがたく、七年ぶりで根室の土をふんだ。 農民の歓迎に応えて視察した佐上信一は、育ての子がスクスクと成長し、前進している姿を眼のあたりにみ、「よろこびの手記」を八月二十二日付の読売報知新聞に寄せた。手記の内容は次のとおりで、胸中無量の感慨が余すところなく綴られている。 「私の乗った自動貨車が牧草畑の真中を疾駆していた。 二頭立てのモーア(牧草刈取機)で、一生懸命刈り取りをやっていた老農が、私の車をみると、いきなり腰掛の上に立ち上って、ねじり鉢巻をしていた手拭をちぎるようにとると、高く高く頭の上で振り回した。同乗の植松君(標津村長)が、。閣下を歓迎しているのです〃と説明してくれたが、植松君に説明されるまでもなく、私の眼は涙であふれそうになっていた。 あの老農がなんという人であるか、私の記憶から、はるかに消え去っている方ではあるが、あの人は今日の今頃、佐上がここを通る〃ことを待っていてくれたのだ。私はあの老農に直接には、なんのつながりもないはずなのに、あの人は私のきたことを、あんなに喜んでくれるのだ。こんな感激は、二日間の原野の旅でしょっちゅう味わされたことだった。 車が農家の傍らを通ると、立派なサイロの下や住宅よりも綺麗な牛舎の軒先に、家内中の人たちが揃って歓迎してくれたりした。私はかつて長官として十散度この原野をみにきたが、こうして真実のこもった送迎をうけたことはなかった。もちろんその頃は肩書がものをいう仰々しさはあったが、″おとっつあん、ようきてくれた″というような親しみというか、濃やかさとでもいうものがなかった。 それは私の責任でもあるが、裸の佐上に還って、私はつくづくと原野民の素朴さに、胸を打たれたのであった。想えば夢のような昔でもある。昭和五、六、七、十年と打ち続く冷害と凶作に、広漠一八十方里の根室原野は生けるもの、ことごとくが死線に彷徨した六月の大霜害などという常識では夢想もできない事象が起こった。 (記載分省略) その瀕死の原野が、こんなにも立派に復興したばかりでなく、成長した。当時作物がよくても、年産六~七〇万円の原野が、今日生産一、二〇〇万円をこえ、原野の中核をなす別海、標津両村だけで、貯蓄額四三〇万円を引きうけて、なお棹々たる余裕を残す、これはどう考えても、どうソロ,ハンを弾いてみても、割り切れない東条方式そのままである。 言いかえれば、まるで谷底からてへんに山のてでへんへ飛び上ったような発展充実ぶりで、今までも植松君や原君 (別海村長)から、いろいろ報告は承わってはいたものの、全く予期以上のものがあった。よく驚異的というが、この言葉は根室原野十年の今昔を対象してはじめて、ピタリと賛成的になってくるような気がする。 当時うす暗い殺気をさえ感じた中標津の市街地にしても、なんという変貌のし方であろう。戸数四〇〇戸、坦々る道路、緑の放牧地、濠洲と生々と悠々たる牧牛の姿、キリリッと清楚な農村の婦人、私は街の東郊をそぞろ歩きながら、j」れがかつての中標津か〃と、自分の眼を疑わずにおられなかった。凶作にうちひしがれたあの弱腰のどこに、この大跳躍をなし遂げる力があったのであろうか。主畜農転換の根本方針を樹てたのは道庁であった。しかしそれを血と汗とで闘い抜いたものは、実に手拭を振った老農であり、軒下に頭を下げてくれたあの人たちではないか。ありがとう、よくがんばって下さった。 私はもう昔の長官たる佐上ではないが、しかし原野の人たちとは、単なる元長官というだけのつながりではないような気がする。根室原野復興のためには、ずいぶん無理もいった、十を百に匹敵さすような努力をも要求した、喜ばれたこともなかったではないだろうが、ずいぶん恨まれもしただろう。しかし十年後の今日、笑って手を握る日が恵まれたのだ。怨讐の彼方に愛情を超越して、〃佐上さん、ようきてくれました〃といわれたあの人々の一言に私はなんと答えたらよろしいであろうか。 上春別で私か部落の人たちに、心から御礼を申し上げて会場をでようとする時に、篤農家井出祐之助君が、佐上さん〃と呼びながら追いすがってきた。″何か用か〃ときくと″いやなんでもありません。ただお顔がみたくて″と涙ぐんでうつむいた。大のおやじの胸にも、子供のような純な美しいものがある。私も眼頭が熱くなって、しっかり頼みます〃と手を握ったら、。閣下、モのころは本当に無理ばかり申しまして……〃とあとはなにもいえずに、眼をこすっていた。 中標津では、産業組合常務の佐藤甚平君が、〝閣下、みんなの顔をみてやって下さい。国運を賭する決戦下に、喜び男んで、ニコニコと働くみんなの顔をみてやって下さい〃と、私にしがみつかんばかりにしていった。そしてまた尾岱沼では、明老人がぎたない家だけどI晩泊って昔話でもしていってくれ、あんたが泊られぬなら、せめて坊ちゃん (同行の息武弘東大二年)でもよいから、わしの家の飯を食べてくれといった。明老人は今年七二歳だが、この老人もまた、原野をその骨ばった肩に担うて起つ陣頭の勇士なのだ。どこにいっても、ニコニコと明るく快活に、ある人は牧草を刈り、ある人は牛乳を運び、麦畑を耕して、増産の一翼をガッチリと引き受けていた。 ことに私の感動を誘うものは、学童たちの脂ぎであった。ちょうど夏休みではあるが、児童たちは野に蓬を刈 り、河畔にいたどりの葉を集めていたと思うと、大きな牛乳輸送缶を背負って、奥武所にいく五、六人の一群をみた。小さい童心にもしみこんだ決戦の意気が、カゼインとなる牛乳を運び、国家が要請する野草の収集に汗を流しているのである。美しい心と明るく働く原野の人々、佐上はここえなにをしにかたか? ときく人があったならば、私は即座に、うれし泣きをしにきた〃と答えるであろう。 (中略) 私の頭は白くなった。しかし育ての子は、スクスクと成長して、立派に国家へのご奉公をしてしるのだ。かつての根室原野放棄論〃を、見ん事に見返して、逞しい希望に満ち満ちて堂々と前進しているのだ。血と涙をもって、ともにつながる親愛なる原野め人たちに、佐上は、次の言葉を躾けとしてご挨拶としたい。 〝家畜と土地を可愛がって下さい。それは本当の意味の酪農王国の建設です。満州の農業と内地高原地帯農業もすべて諸君を指導者としていることの自覚において……〃」。 このとき佐上信一は、虹別・上春別・計根別・中標津と農家を一軒一軒訪ねて労苦をねぎらったのち、興農公社中標津工場を訪問。「ああ、よかった。みんなよくやってくれた、群がる乳牛の姿をみると、嬉し涙がでるよ」といいながら、真夏の汗と感激の涙を一緒にしてハンケチをぬらした。 「硯と筆を用意してくれ」、やがて「牛群如雲」としたため、また部落民から要請されるままに、「中標津神社」の社名を墨痕鮮やかに揮毫した。 エ場の前には、佐上を救世主のように慕う多くの農民たちが、一升ビンにつめた牛乳、お初穂のカボチャ、トーキビを「食べて下さい」ともって並んでいた。仁王様のような大兵漢佐上の両眼はまたしても涙にうるんだ。 それから三ヵ月後、急務を帯びて別府へおもむき、帰京の途中十一月二十八日姫路神戸間の列車の中で脳溢血に倒れ、二十九日不帰の客となり、六二歳の生涯を閉じた。 原野農民は訃報になき・・・ ![]() 上の写真は移住者世話所時代の佐藤恒市さんのアルバムにあったもので、移住者世話所で使用しているトラックであり、後輪はダブルタイヤにして悪路対策をしている。 ![]() このスナップショットは殖民課制作の移住促進用の活動写真からとったものである。 もしこれがシボレーの1928年(昭和3年)型だとしたら最新型の米国製トラックを輸入していたわけだ。 ハンドルが右なのが気になるところで、日本製シボレーなのかもしれない。 昭和3年11月には全国で天皇の即位を祝うお祭りが行われた。 そのころ農試の根室支場(伝成館)は2年に本館が建築され、3年には農具庫などの付属施設も完成し、4年に落成式が行われていた。 下の写真をよくよく見てみると、いくつかの疑問がわいてくる。 バンパーの前、道路の真ん中に棒が立っており、動画では、この棒を倒したところで停車している。 わかりやすく撮影用にバミっているわけだ。 監督がそれを見て運転手に合図をしているのだろう。 法被姿の「移住者」にも違和感がある。 小作農になるために各地から集まって来た人々の姿であろうか。 荷台での原野の長時間の移動はかなり厳しいはずで、この映像の笑顔の人々を見ると、撮影だけのためのものに思われてならない。 この活動写真全体に言えることは、季節のよいときに、エキストラと思われる移住者役の人々が同じバスケットを下げて別の場所に登場したり、開拓民役の人が一斉に農作業をしたりしており、移住促進用の演出されたプロモーション映像であり、ドキュメンタリー映像ではないと考えるべきものだ。 伐採して倒木作業をしているすぐ近くで島田鍬での手起こしをしていたりして、危険極まりないし、第一冬の映像は、婦人がソリを見事に操っている場面だけで、他のすべての場面は入植時期としてはふさわしくない夏場の風景である。 この映像を見て、北海道移住を決意した多くの人々は、入植直後の連続した冷害凶作で全財産を失い、離農も地獄、続けるも地獄の世界を経験することになる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 戦勝の夢を追って苦闘拾余年。現実はあまりにも厳しい敗戦の惨めさであった。 虚脱感と心身の疲労と、そして食糧難による栄養失調が、若い命を惜しまれる人々を失っていった。 誰かの言った「国敗れて山河あり」 いや、その山河さえ昔の影は消えて、樹木は草原に変わり、荒れ果てた山肌の水は一度に流れて、川は限りなく暴力の流れに変わった。 悶え苦しみ悩み、そして命の貴さをとりもどして、人々は家を繕い、畑を耕し、失望の底から青空を眺める希望への姿と変わった。 今年もまた豊作ではなかったが、よく働いてくれた馬に水をやる娘の表情は明るい。 井戸枠の渕に積もった雪が、この娘の清純なすべてによく調和している。 はねつるべの支柱にかけられている牛乳のこし布も清潔な感じである。 (敗戦後 昭和21年冬) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 11月23日の町民交流会での発表用画像 画像1 画像2 http://static.panoramio.com/photos/original/4772837.jpg http://static.panoramio.com/photos/original/4772583.jpg これって 世界遺産級ではないでしょうか 参考 Google Earth で閲覧可能 あと何枚か関係画像あり 敗戦が決まった後の戦いで 北海道が露西亜領になるのを防いだ 戦後、北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車大隊は、この占守島の戦いで奮戦し、上述の通り北海道を護りきった栄光の帝国陸軍戦車第11連隊(愛称:士魂部隊)のその活躍を顕彰し、その士魂精神の伝統を継承する意味で、「士魂戦車大隊」と自ら称している他、部隊マークとして装備の74式戦車・90式戦車の砲塔側面に士魂の二文字を描き「士魂」の名を今も尚受け継いでいる
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